かるあ学習帳

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ゲーム版/小説版『沙耶の唄』の考察

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沙耶の唄
シナリオ:虚淵玄
原画:中央東口
2003年12月26日発売
 
 
 
(この記事にはゲーム版/小説版『沙耶の唄』の重大なネタバレが含まれています)
 
 
 

ゲーム版の全体構造について

沙耶の唄』はグロテスクな表現に定評があるゲームで、俗にグロゲーと呼ばれるジャンルの名作である。虚淵氏の重厚なテキストと中央東口氏のシャープなイラストが、良い雰囲気を醸し出している。この作品のシナリオとイラストは、美少女ゲームの王道から大きく逸脱している。沙耶の唄美少女ゲームの王道をいく作品ではないと思うけれど、ホラー映画の王道をいく作品である。
 

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主人公・匂坂郁紀は交通事故の後遺症で知覚障害を負い、身の周りにあるものが醜悪な臓器や怪物に見えるようになる。この作品で郁紀が認識する世界は極めて個人的な主観に基づくものであり、郁紀と沙耶の恋愛は世界の命運を左右することになる。セカイ系」という言葉の定義は曖昧なものだが、『沙耶の唄のシナリオは明らかにセカイ系だと言ってよかろう。
 

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郁紀は日常世界を醜悪な姿で認識するのだが、ヒロインの沙耶だけは唯一まともな人間に見える。沙耶は、郁紀にとって醜い世界に咲く美しい一輪の花だ。その一方で、沙耶の姿は郁紀以外の大抵の人間の視点から見ると恐ろしい怪物に見える。この「ある人間の視点では美少女に見えるが、別の人間の視点では有害な化け物に見える」という設定は、こんにち「美少女キャラクター」と呼ばれている対象へのある種の批判だと解釈できそうだ。*1
 

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沙耶の唄』には、耕司という男が登場する。耕司はこの作品の影の主人公…というか主人公の対極のような存在である。郁紀は世界を歪んだ姿で認識する異常者なのだが、耕司は世界を平凡に把握する常識人である。耕司は作中で発生する異常な現象に、理性的な・常識的な仕方で対処する。耕司は郁紀の親友だったのだが、世界を把握する仕方が郁紀とほぼ真逆であり、「開花END」と「耕司END」では郁紀と対決することになる。
 
沙耶の唄』はノベルゲームらしく途中でシナリオが分岐し、俗に「開花END」「耕司END」「病院END」と呼ばれる3種類のエンディングが用意されている。開花END」は、郁紀の異常な認識に肩入れした結末である。「耕司END」は、耕司ら常識人の平凡な認識を強く揺さぶる結末である。「病院END」は、異常者でもなければ常識人でもない落伍者から見た「第三項の世界」を描いた結末である。

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3つの結末をカテゴリー分けすると、上記の図のようになるだろう。3つの結末では、重点的に描かれる「世界(セカイ)」が違うというのが私の解釈である。*2
 

ゲーム版「耕司END」の考察

本節では、ゲーム版『沙耶の唄』の耕司ENDを考察する。耕司ENDはおそらく開花ENDや病院ENDよりも地味だと思われていて、人気もあまりないだろう。しかし、耕司ENDは読み物としての完成度が非常に高い。本稿の構成を考慮しても、まずは耕司ENDについて論じるべきだろう。
 
・耕司の人柄
耕司は世界を正常に把握し、一般大多数の人々が信じる現実を共有する常識人である。知覚障害を負ってから様子がおかしくなった郁紀を不審に思った耕司は、郁紀のことを詮索する。耕司は郁紀に鬱陶しく思われてしまい、郁紀に殺されそうになる。耕司は、医師の凉子によって救出される。
 

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「郁紀がやったことは殺人未遂です。俺が訴えれば、あいつは犯罪者としてー」
「目撃者は?物証は?匂坂くんが君を殺す動機は?」
粘り強く耕司が続けた言葉を、凉子が強い語調で絶ち切る。
「なあ戸尾くん。君は警察の仕事についてひどく勘違いしてる。彼らの職分は正義を貫くことでも、市民の安全を守ることでもない」
「そ、そんな」
不条理な物事について、きちんと条理に沿った体裁を整えるーこれが警察っていう役所の仕事だ。彼らの思考はいつだって、より理解しやすい方、より説明しやすい方に傾いていく。それこそ水が低い方へ低い方へと流れていくように。
 事実がどうあろうと彼らには興味ない。彼らが関知するところではないんだよ。小説より奇なる事実、なんてものは
 
常識人である耕司は、警察の力を借りて郁紀を裁こうとする。警察は公共の権力であり、常識的な理性の象徴であろう。しかし、郁紀の思考や郁紀を取り巻く状況は、とても不条理なものだ。不条理を生きる郁紀を、常識は回収することできない。耕司はとても常識的な人間なのだが、その常識は『沙耶の唄の世界では通用しないのである。
 
・「戯言」の逆転
耕司ENDには、耕司と凉子が深夜のファミリーレストランで語り合う場面がある。奥涯教授が「沙耶」と呼ばれる怪物を研究していたことを知り、凉子は精神を失調したという。
 

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「事の究明には、けっきょく皆が匙を投げた。奥涯が持ち込んだ試料がどういう起源のものなのか、誰にも突き止めることはできなかった。
 ーまぁ結局、みんな賢明だったわけだ。理性は理性、戯言は戯言、そういう線引きを危うくしないで済む程度ってもんを心得ていた。
 でも生憎、当時の私はそこまで賢明じゃなかった
(中略)
「あれこれ探って、暴き出して、私は奥涯が何をしていたのか知った。彼がかかわっていた連中や彼を唆した連中も突き止めた。
 鉈と添い寝するようになったのはその頃からだ。この世の理性ってものがどんなにタガの弛んだ、穴だらけの、頼りない代物なのか理解するようになったのは、ね
 
耕司に代表される一般大多数の人々は、「理性的に考えて理にかなっていること」と「理性的に考えたら馬鹿らしく思える戯言」を頭の中で区別して正気を保っている。そして理性に反する不条理な戯言は、通常は相手にされない。しかし凉子は奥涯の研究を詮索しているうちに、常識では到底考えられない怪物がこの世に実在することを知ってしまう。こうして「理性/戯言」の境界は崩壊し、凉子は正気を脅かされることになった。
 
耕司ENDのラストでは、常識の代弁者である耕司までもが精神的に追い詰められる。廃墟で怪物に遭遇し、郁紀たちの壮絶な最期を看取った耕司は、悪夢や幻覚を見るようになる。
 

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 彼は知ってしまったのだ。真実という名の狂気に冒されて、穢されて、二度と何も信じられなくなったのだ。
 この自分が、毒に冒されたというのならー真実こそが毒なのだろう。
 純粋な酸素が生体にとって有害であるように、剥き出しの真実は、ヒトの精神を破壊する。
 酸素は5倍の窒素で包まれてはじめて、大気として許容される。同じことだ。戯れ言で希釈された片鱗だけの真実を呼吸することで、人は健やかなる心を維持できるのだ。
 
この結末では、「戯言」の定義がとうとう逆転している。一般大多数の人々は、「常識的に考えたら馬鹿らしく思えること」を「戯言」だと定義する。しかし怪物を実際に目の当たりにした耕司にとっては、「この世に怪物など実在しないという常識」のほうが「戯言」に思えるのだ。耕司ENDのラストは、一般大多数の人々が信じる常識の優位性を覆すことに成功した結末である。
 
・悲鳴を上げて逃げ回る以外の選択肢
凉子は深夜のファミレスで、耕司にこうも語っている。この発言は、凉子と耕司の末路を予告する一種のフラグになっていると考えられる。
 

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銃はいいよ。本当に。相手に向かってぶっ放すも良し、それで駄目なら自分の口に突っ込んで引き金をひくっていう選択肢もある
 
凉子は郁紀や沙耶と戦った際に、ショットガンを発砲した。凉子は致命傷を負った後も「自分の口に突っ込んで引き金をひく」という選択肢を選ばず、「相手に向かってぶっ放す」という選択肢を最期まで選び続けた。
 
一方、沙耶という怪物を目撃した耕司は、拳銃を使って自殺しようとする。
 

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どんなに世界が底抜けに滅茶苦茶になっていこうとー
 耕司の脳裏を過ぎるのは、生前の、本物の丹保凉子が自ら口にした言葉だった。
悲鳴を上げて逃げ回る以外の選択肢が、自分にはあるー
 それは紛れもなく、彼女が胸に秘めていた慰めの形なのだろう。夜毎に襲い来る悪夢に立ち向かうための護符だったのだろう。
 先人の教訓を胸に刻んだ耕司には、もちろん、準備に抜かりはない。
 ただ一発の弾丸は、いつでも洗面所の鏡の裏で、耕司に救済を保証してくれている。
 
耕司は凉子が遺した言葉を心に刻み、世界の不条理に対処するために銃と弾丸を使おうと思っている。不条理な世界で悲鳴を上げて逃げ回る選択肢を拒んでいるという点では、耕司と凉子は共通している。しかし凉子が最期まで「相手に向かって発砲する」という選択肢を選んだ一方、耕司は「自分に向かって発砲する」という選択肢を選ぼうとする。凉子は戦い続けることによって不条理に対応したのだが、耕司は自殺することによって不条理に対応しようとする。ここが両者の大きな違いである。
 
・まとめ:論点整理

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耕司ENDには、一般大多数の人々が信用する理性や常識を突き崩し、「戯言」に貶める作用がある。多くの人々は理性や常識に従って判断するのだが、その理性や常識とやらは言うほど信用できるものなのだろうか。耕司ENDは、一種の理性批判なのだ。
 
さらに耕司ENDは、世界には理性や常識を破る出来事が存在するとわかったとき、人は不条理にどう対処するのか、という問題にも踏み込んでいる。不条理から悲鳴を上げて逃げ回るという選択肢の他に、「戦う」という選択肢と「自殺する」という選択肢があるということが示されている。
 

ゲーム版「開花END」の考察

・それは、世界を侵す恋
開花ENDのラストでは、沙耶の背中から無数の花弁が生える。花弁からは光る鱗粉が放たれる。沙耶の鱗粉は世界を侵食し、世界は沙耶と郁紀のものになる。人類社会は滅亡し、沙耶と郁紀のセカイが勝利した。
 

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わたしとー郁紀のー世界の、始まりー
 風に乗って、光の粒が運び去られていく。輝きの流れになって、冬の夜空へと舞い上がり、凍てついた夜を染めていく。
 美しかった。圧倒的に、絶望的なほどに美しかった。
 新しい世界の幕開けの、古い世界の滅びの唄。
 輝く生命はいま自由を謳歌し、勝ち鬨の声を上げて、この広く肥沃な大地へと解き放たれていく。
 かくも広遠なる癒しー
 かくも悠久なる至福ー
 僕らは、僕らの歓喜でこの世界を染め上げる。
 
沙耶と郁紀の恋は、一般大多数の正常な人間からすれば、異形の怪物と異常者の恋愛にほかならない。そして沙耶と郁紀は人類を侵略する、人類の敵とも言える存在である。しかし、沙耶と郁紀にとって二人の愛はおそらく純愛であり、郁紀が最後に見た世界は「絶望的なほどに美しかった」。開花ENDは「人類のバッドエンド」であると共に「沙耶と郁紀のハッピーエンド」だ。そしてこの結末から、沙耶と郁紀の新世界が始まる。
 
沙耶と郁紀ほど極端な例ではないにしても、「傍目から見たら狂っている恋愛」や「周りに迷惑な恋愛」はそこらじゅうに転がっているだろう。開花ENDは、「道を外れた恋」を美しく描いた、いびつな愛の賛歌である。
 
・幸せを感じる枠組みを作り変える
開花ENDには、ライター・虚淵氏の人生観がとてもよく表れていると思う。虚淵氏はかつて、不登校新聞』というひきこもり専門紙のインタビューで、次のように語っていた。
 
世の中の価値観や常識に自分を合わせていくと、結果的には他人を蹴落としたり、面倒が起きたりすることになる。(中略)そういうことではなくて、あくまで自分に即した理想、快楽、達成感を軸に据えれば、そこには誰も干渉できません。たとえそれが傍から見て愚かだと思われても恥じることではなかろう、と。幸せを感じる枠組みを変えてしまうことが大事なんじゃないかと思うんです。
 
上記の思想は、開花ENDに明らかに反映されているだろう。開花ENDでは、世の中の価値観や常識に自分を合わせられない郁紀という人間の救済が試みられている。郁紀は知覚に異常があるので、郁紀のセカイに常人は干渉できない。開花ENDでは郁紀の歪んだ認識を矯正することなく、逆に歪んだ認識に合わせて幸せを感じる枠組みが作り変えられている。
 
・純粋なものは有害である
開花ENDの内容や虚淵氏の思想に対しては、次のような批判が予想される。私的な事情で人類全体を巻き込んで絶滅させるなんて、沙耶と郁紀は傍迷惑すぎるだろう。虚淵氏が『不登校新聞』で開陳した思想は、自己満足的かつ独善的すぎるだろう。…と。
 
こうした批判は理にかなっていると思われる。しかし、こうした批判こそ『沙耶の唄』の圏内にあり、『沙耶の唄のシナリオとある意味上手く噛み合っているのではないかと思う。耕司ENDのラストをもう一度読んでみよう。
 

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 この自分が、毒に冒されたというのならー真実こそが毒なのだろう。
 純粋な酸素が生体にとって有害であるように、剥き出しの真実は、ヒトの精神を破壊する。
 酸素は5倍の窒素で包まれてはじめて、大気として許容される。同じことだ。戯れ言で希釈された片鱗だけの真実を呼吸することで、人は健やかなる心を維持できるのだ。
 
上記の文では、純粋な酸素や純粋な真実が有害なものとして表現されている。純粋な酸素や純粋な真実が有害であるのに加えて、沙耶と郁紀の純粋な恋愛もまた、有害なものであろう。沙耶の唄』は純愛の有害な側面を描いた作品だと思うので、その有害さを批判しても大した批判にならないんじゃなかろうか。
 

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また、沙耶と郁紀は世の中の価値観や常識からあまりにも外れた存在だから、その異常さを映し出す第三者の視点として、耕司という人物や耕司ENDが用意されているのではないだろうか。耕司は常識人であり、沙耶と郁紀が非常識な存在だということをちゃんと認識している。耕司や耕司ENDは虚淵氏が自分の思想の非常識さを自覚していることの証明であり、虚淵氏に常識的な物の見方がしっかりと備わっていることの証明でもある。沙耶の唄』は、そうした常識を踏まえた上で、常識に果敢に挑戦しているのだろう。
 

ゲーム版「病院END」と小説版の考察

・第三項の世界
郁紀は知覚障害を負ったことが原因で、身の周りに存在する人間や物体が醜悪な怪物や臓器に見えるようになってしまった。郁紀は、唯一まともな人間に見える少女・沙耶と愛を育む。沙耶は、人間の脳を操作する能力を持っていた。郁紀が元の暮らしに戻ることを望み、沙耶に脳の異常を治してもらうところから病院ENDはスタートする。
 
郁紀は正常な知覚を取り戻したものの、社会復帰することができなかった。郁紀は知覚障害を負っている間に殺人を行っており、取り調べを受けた後、精神科医の勧めで病院に収容されることになった。
 

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 僕が体験してきたことは確かに現実だ。が、それはこの部屋の外の世界とは折り合いのつかない現実なのだ。だから先生はこの小さな空間を切り分けて、僕だけのために与えてくれた。僕が僕の現実を生きる場所として。
 哀しいが、仕方ないことだと思う。より大勢の人が信じる大多数の現実で、この世界は成り立っている。その枠からはみ出た場所に僕は踏み出してしまったのだ。
 今、たしかにこの部屋の壁はー白い。その事実だけに感謝して、僕はこれからの一生涯を送る。
 
郁紀の知覚障害は治ったので、郁紀はもう「異常な個人が認識する世界」の住人ではない。しかし、郁紀は知覚障害を負うことによって一般大多数の人々の常識からはみ出してしまったので、「大多数の常識人が認識する世界」の住人にもなれない。郁紀が収容された白い病室は、「異常な個人が認識する世界」でもなければ「大多数の常識人が認識する世界」でもない、「第三項の世界」である。
 

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開花ENDでは、知覚障害を負った郁紀という「異常な個人が認識する世界」が徹底された。耕司ENDでは、耕司に代表される「大多数の常識人が認識する世界」の崩壊が描かれた。そして病院ENDでは、白い病室という「第三項の世界」が提示される。制作者が意図的に設計したことなのかどうかは私にはわからないが、3つの結末では重点的に描かれる世界が異なっている。
 
・写真には写らない美しい愛
ある日、郁紀の病室のドアの向こうに、沙耶が現れる。沙耶は、ドアの覗き窓から携帯電話を差し入れる。
 

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 携帯電話。メモ帳機能が追加され、液晶画面にはいま入力されたばかりのテキストが表示されている。
わたしの声、
きっと変に聞こえるから
 
知覚障害を負った郁紀から見たらまともな人間に見えた沙耶の正体は、恐ろしい怪物であった。郁紀は知覚が正常に戻ったので、今の郁紀から見ると、沙耶は変な声で話す奇妙な化け物に見えるだろう。
 
しかし、醜い怪物である沙耶には、「郁紀に自分の変な声を聞いて欲しくない」「自分の醜い正体を見て欲しくない」という羞恥心があった。沙耶の「心のかわいらしさ」が、短い文章でよく表れている。沙耶に恥じらいがあることを、郁紀は微笑ましく思う。
 

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 僕はつい可笑しくてクスリと笑った。沙耶でも、こんな風に恥ずかしがることがあるなんて。
そんなこと、僕はぜんぜん気にならないよ。君の声が聞きたい。姿が見たい
 
郁紀は沙耶の正体が怪物だったとしても全然気にせず、沙耶のことを愛していた。彼女の外見を嫌悪しない郁紀の「心の純真さ」が、これまた短い文章でよく表れている。相手が異形の人外だったとしても相変わらず愛するとは、並大抵の人間にはできないことだろう。郁紀は、とてもいい彼氏だったのだ。
 
病院ENDでは、『沙耶の唄という作品だからこそ描ける美しい愛の形が示される。病院のドア越しに語り合う沙耶と郁紀は、常識人から見たら怪物と社会不適合者だ。しかし沙耶にはかわいらしい羞恥心があり、郁紀の愛情はとても純真なものだった。これも一つの、写真には写らない純愛の美しさである。
 
・補説:小説版について

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沙耶の唄』には、小説版が存在する。小説版の文章は、ゲーム版の文章を忠実に再現している。というか、小説版の文章の9割くらいはゲーム版のコピペだと言ってよい(笑)。小説版では、なんとゲーム版の文章だけでなく「選択肢」も小説化されている。原作のイメージを壊さないことは大事かもしれない。しかし、いくらなんでも選択肢まで小説に載せる必要は無かったのではないだろうか…。ゲーム版では登場人物が旧式の携帯電話を操作する場面があったが、小説版では操作する端末がスマホに変更されている。小説版で小道具を時代に合わせて改変したところは良かったと思う
 
小説版の結末は、ゲーム版の開花ENDと耕司ENDの内容を組み合わせたオリジナルの結末だ。「対立」する両極は、場合によっては「両立」しうるものである。「異常な個人が認識する世界」を描いた開花ENDと「大多数の常識人が認識する世界」を描いた耕司ENDは多くの点で対立しているものの、小説版では両立し・組み合わさった。しかし病院ENDの内容は、小説版から完全に捨象されている。病院ENDでは「第三項の世界」が描かれたので、二項対立する残り2つの結末からはじき出されたのだろう、と考えられる。
 

この記事の基になった記事

amaikahlua.hatenablog.com

amaikahlua.hatenablog.com

amaikahlua.hatenablog.com

amaikahlua.hatenablog.com

*1:失言だったらすまんな。

*2:私と同じような解釈を数年前にどこかの個人サイトで拝見したことがあるのですが、今検索したら見つかりませんでした…。