かるあ学習帳

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物語に「ストーリー性」は絶対必要なのだろうか?

物語に「ストーリー性」は絶対必要なのだろうか。本稿で言うストーリー性とは、物語の構成や筋書きのような「骨組み」のことだと思って欲しい。例えばドストエフスキートーマス・マン宮沢賢治の代表作には数理的なまでに計算された構造が発見されているので、ストーリー性があると言える。他にも起承転結や三幕構成、一貫した骨格のある物語にはストーリー性があると言ってよいだろう。
 
しかしストーリー性は、物語を物語たらしめるのに絶対必要な条件なのだろうか。現時点での私の結論は、「ストーリー性が無くても物語は作れる」というものだ。ストーリー性が無くても物語は作れるなんて当たり前じゃんというツッコミが予想されるが、創作や批評を行う人はこの前提をキッチリ押さえておいて欲しいと思うのである。
 

論点1:ストーリー性は「あらすじ」にもある

多くの物語にはストーリー性があるが、ストーリー性は物語だけでなく「あらすじ」にもある。あらすじは、物語の流れの骨子を簡潔に要約する。あらすじを読むと物語の筋書きが掴みやすくなるため、あらすじは物語のストーリー性が摘出されたエッセンスのようなものだと言えるだろう。ただしあらすじは物語から二次的に抽出された文献であるため、鮮度ある物語そのものからは遠ざかっている。あるいは作者が自分の作品の構想をあらすじの形でまとめた場合、そのあらすじは「物語になりきっていない鉄筋」のようなものだろう。
 

あらすじを読むと物語の骨格が把握しやすくなるのだが、あらすじは物語よりも読み物として「味気無い」「つまらない」代物が多いと思う。物語から要約には不必要な肉を削ぎ落とし、骨格を抽出するとあらすじができあがる。あらすじは肉の無い骨」のようなものだと仮定すると、食い物としては「おいしくない」と考えられる。鑑賞者たちは物語の登場人物の活き活きとした活躍を楽しんだり、美しい情景描写に感動したりする。物語の骨格ではなく、骨格に付いた生々しい「肉」を味わうのを楽しむ鑑賞者は多い。
 
ストーリー性は物語だけでなく、物語になりきっていないあらすじにも見られるものだ。ストーリー性という骨格に活きのある肉が付くことによって、物語はおいしい=面白い品物として広く流通することができる。あらすじの中には物語のどこが面白いのかを具体的に説明する文章もあるだろうが、そういう文章は「あらすじ」と言うよりは「感想」や「宣伝」に近い代物になるだろう。
 

論点2:日常系アニメは「骨無しケンタッキー」!?

日常系アニメというジャンルがある。昔流行った『らき☆すたが良い例だが、日常系アニメはストーリー展開が「ユルい」作品が多い。ほんわかした見た目のキャラクターが緊張感の無い無駄話や茶番劇を延々と続けているだけで、1話が丸ごと終わってしまう作品が珍しくない。日常系アニメは物語に大きな起伏が発生しづらいので、「ストーリー性が弱い」ジャンルだと批判されがちである。口が達者な人なら日常系アニメのストーリー性を上手く掘り出せるかもしれないが、それにしても日常系アニメは骨格が貧弱になりやすいと思う。
 

これは私の持論だが、日常系アニメは「骨無しケンタッキー」のようなものだと思う。日常系アニメはストーリー性という骨格が貧弱で、見た目も構造もユルユルな作品が多い。しかし、日常系アニメにはかわいらしいキャラクターの言動や日常に根差した現実感のあるネタなど、「活き活きとした肉」がたっぷりと付いている。日常系アニメには骨太の方針が無くても、おいしい肉が付いているから楽しく召し上がれる=鑑賞できる。だから日常系アニメは、骨無しケンタッキーのようなものだ。
 
「日常系アニメはストーリー性が貧弱だから駄目だ」という理由で、日常系アニメを批判する人がいる。その批判はかなり理に叶っているとは思う。しかし、ストーリー性が貧弱でも物語は成立する」という好例を日常系アニメが示したという点は、評価されるべきだ。骨が無くても骨無しケンタッキーが肉料理として成立するように、ストーリー性が貧弱でも日常系アニメは物語ジャンルとして成立している。骨無しケンタッキーがケンタッキーフライドチキンの画期的発明であったのと同じように、日常系アニメは物語創作術の画期的発明だったと私は主張したい。
 

論点3:ストーリー性が無い純文学の名作が存在する

ヘミングウェイ"The Sea Change"という短編小説がある。この小説は、ヘミングウェイがストーリー性を意識的に除外して書いた作品である。"The Sea Change"は異様に簡単な英単語で書かれた小説なのだが、メッチャ読みにくい。なぜならこの小説には骨格らしい骨格が無いので、じっくり読んでも何が言いたい話なのかがよくわからないからだ。
 
しかしヘミングウェイは、「ストーリーを除外したが、全てがそこにある。見えはしないが、そこに全てあるのだ」と豪語し、自作の"The Sea Change"をプッシュしている。この小説にはレズビアンらしき女性とゲイに目覚めるっぽい男性が登場し、意味を読み取りにくい会話が延々と続いていく。この小説はストーリー性が無いのであらすじが書きにくいのだが、この小説の世界観全体が性倒錯という「テーマ」を表現しているように感じられる。私が見た限り、ヘミングウェイは「ストーリー性」が無くても全体的にテーマ性」のある短編を書こうとしているのかなと思った。
 
"The Sea Change"は、ヘミングウェイの短編の中でも特に難解な作品である。この小説はストーリー性が意識的に引っこ抜かれているのだが、物語として一応成立している。そしてこの「ストーリー性が無い物語」は、純文学としての地位を有識者によってちゃんと認められている。ストーリー性が無い純文学なんて他にもいくらでもあると思うが、ストーリー性が無くてもテーマ性で勝負できることの一例として“The Sea Change”を挙げてみた次第である。
 

結論:ストーリー性が無くても物語は創作できる

では、今回の論点をまとめよう。
 
論点1ストーリー性という骨格に活きのある肉が付くことにより、味わい深い物語が完成する。肉が脆弱で骨だけの物語は、あらすじに近い代物になってしまう恐れがある。
論点2…日常系アニメは骨格が脆弱になりやすいが、豊潤な肉によって視聴者を楽しませることができる。骨無しケンタッキーが肉料理として成立するのと同じように、骨格が無いアニメも物語作品として成立可能だ。
論点3ヘミングウェイはストーリー性が無い短編小説を書くことに成功した。ストーリー性が無くても純文学を書くことは可能だ。
 

物語にストーリー性という骨組みがあると、作品にクラシック音楽のように計算された構造が備わる。逆に物語にストーリー性が無いと、"The Sea Change"のようにメッチャ読みにくい作品になる恐れがある。それにしても、ストーリー性が無くても物語を創作することは十分可能である。物語を創作する者は、「物語にはストーリー性がなければならない」という思い込みに囚われず、自由に創作して欲しいと私は思っている。そして物語を批評する者は、「ストーリー性が無いから」という理由で作品を短絡的に低評価するのを控えるべきである。

『美少女万華鏡 理と迷宮の少女』考察~愛は全てを繋ぐ~

『美少女万華鏡』第5話「理と迷宮の少女」は、『美少女万華鏡』シリーズの最終話です。この第5話は最終話なだけあってシナリオがかなり長く、内容もシリーズの集大成として申し分無い出来でした。ただ、話が長めなぶんだけプレイしていて若干ダレる所があり、病的な完成度を色んな意味で誇る第4話には及ばないかなと思いました。それにしても第5話は力作ですから、この作品を創った制作スタッフからの恩を考察で返そうと思います
 

『美少女万華鏡 理と迷宮の少女』
シナリオ:吉祥寺ドロレス
原画:八宝備仁
2020年5月29日発売
(C)omegastar
 
(以下、超ネタバレ)

『美少女万華鏡 罪と罰の少女』考察~父殺しの天才~

『美少女万華鏡』第4話罪と罰の少女」は、全5話の中で一番完成度が高いと思います。美少女ゲームの中にはしばしば並の純文学よりも大きな感動を与える作品が存在しますが、この第4話はまさしくその典型だと思います。中原中也ドストエフスキーランボーなど、古典文学からの引用が効果的に用いられており、人間存在の深淵を覗き見た心地のする傑作でしたよ、これは。

 

『美少女万華鏡 罪と罰の少女』
シナリオ:吉祥寺ドロレス
原画:八宝備仁
2017年7月28日発売
(C)omegastar
 

怪奇作家・深見夏彦は「人形の間」に四度目の訪問をし、謎の少女・蓮華から万華鏡を借りて夢の世界を覗き見ます。第4話の読解で重要なポイントは、物語が万華鏡という「鏡」に映し出された虚像だということです。第1~3話の物語も万華鏡の鏡像でしたが、第4話では鏡像というキーワードが格別に大きな意味を持ちます。
 

第4話の主人公・覡夕摩は詩を愛する美少年で、鏡に映る美しい自分の鏡像に心酔しています。夕摩には、夕莉というこれまた美しい姉がいます。夕摩・夕莉は一卵性双生児で、二人は性別は違いますが見た目がそっくりです。夕摩は鏡に映る自分を愛するのと同じ要領で、自分そっくりの姉を愛していました。夕摩・夕莉は姉弟でありながら肉体関係になり、近親相姦に陥っていきます。
 
精神分析学に詳しい人なら、第4話の内容からラカンの(メルロ=ポンティでもいいかも)鏡像段階」説を想記するでしょう。
 

 鏡像段階では、子どもは鏡のなかの自らの全体像を自我として認め、勝ち誇った態度を示す。だが、子どもの自我がそこで成立し、子どもは満足して終わるわけではない。この経験は逆に子どもにとって別の種類の苦しみの始まりでもある
(中略)人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒体にすぎない。もっと具体的に言えば、この像は他者のイメージ、つまり生まれてすぐなら母親、そして兄弟、家族のイメージである。*1
 
生後六ヶ月に達した子供は鏡の中に自らの姿を認め、喜びの表情を示すという説があります。そして子供は他者と関わり、言語や社会的規範を身に付けていきながら、徐々に成熟していくのです。しかし、もしも子供がナルシシズムのバリアーに内在し、社会的規範を排除して成長したとしたらどうなるか……という思考実験が、この第4話だと思います。
 

夕摩・夕莉姉弟の父親は、礼次郎という高級官僚です。礼次郎はエリートの立場から他人を見下しており、愚民やマスメディアを嫌悪しています。そして礼次郎は子供が帝大に進学することを期待しており、ひきこもり気味の夕摩を厄介者扱いしています。礼次郎は当然の事ながら夕摩・夕莉に嫌われており、鬱陶しい父性権力の象徴」として描かれています。
 
夕摩・夕莉に感情移入して第4話を読むと、礼次郎はとても嫌な父親に思えますね。しかし、礼次郎には自分の子供を社会の勝ち組に育成する役割」があることを見落としてはなりません。礼次郎は自分の子供がエリートになることを期待しており、礼次郎に反逆する事は何らかの形で反社会的な色彩を帯びます。ラカン理論では、ルールを司り主体を去勢する存在が父親に喩えられます礼次郎は自己愛空間にひきこもる夕摩を処罰し、社会の厳しさを教える父親ですから、ラカン的な父性の体現者でありましょう。
 
(以下、超ネタバレ)

*1:向井雅明『ラカン入門』、ちくま学芸文庫、二〇一六、二五頁。

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