かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

2017年と2018年の私の人生を振り返ってみる。

早いもので、2018年ももう終わろうとしている。

今年の私の人生に対して何か一言言うとしたら、
 
仕事が見つかってよかった
 
この一言に尽きる。
 

激動の2017年と2018年

 
2017年と2018年は、私にとって激動の日々であった。
 
私が2017年6月まで働いていた職場は、とても過酷な職場だった。
頼りにしていた先輩の正社員が末期ガンになって仕事を辞め、仕事の責任の重さに耐えかねたアルバイトの大学生たちも次々に退職し、職場に残された私たちは地獄のような苦しみを味わうことになった。
職場では素早い判断力や好感の持てる接客力、複雑なレジ操作や膨大な在庫の管理など、まさに何でも屋と言ってよいほど幅広く高度なスキルが要求された。私は職場の要求にうまく応えることができなかった。長年勤めているアルバイトの主婦たちにさんざん小言を言われたし、顧客たちもやたら怖い人が多くてうまく接することができなかった
私は心身を病み、2017年5月に精神科医から統合失調症だと判断された。こんな状態で仕事を続けられるわけがないと思った私は、6月に仕事を辞めた。今の仕事は過酷だが、他の仕事はもっと楽だろう。今の仕事はすぐに見つかったから、他の仕事もきっとすぐに見つかるだろう。そんな考えで私はすっぱりと仕事を辞めることにした。しかし、その考えが甘い考えであったことに私は後から気付くのだった…。
 
教訓1:仕事はそう簡単に辞めないほうがいい
 
私は近所の某薬局で面接を受けたが、不採用だった。ハローワークに頻繁に足を運んだ。しかし、ハローワークが紹介する仕事は医療や介護などに関する専門的なスキルが要る仕事だったり、職場があまりにも遠方にある仕事だったりして、なかなか良い仕事が見つからなかった。ハローワークに3つくらいかろうじてマシな仕事を紹介してもらったが、ぜんぶ面接で落ちた。
某人材派遣会社に登録したこともあった。人材派遣会社が私に紹介する仕事も、法外に高度なスキルを要求する仕事ばかりだった。こんな仕事派遣社員がする仕事じゃねえよ、超エリート級の正社員のする仕事だろと突っ込みたくなるような仕事ばかりだった派遣社員に超エリート級の正社員並みの仕事をさせ、出た高い利益の一部を吸い上げる派遣会社の陰謀が見え透いていた。他にもいくつもの仕事に面接で落ちた。
 
教訓2:ハローワークや人材派遣会社はアテにならない
 
私は2017年12月に、某飲食店に採用された。しかし、仕事の初日に手を大ヤケドし、手の治療に専念することになった。結局、某飲食店の仕事は1日で辞めることになった。不器用で料理が下手なことが災いした結果だった。
 
教訓3:料理ができると仕事の幅が広がる
 
2018年になっても、私は仕事の面接に落ち続けた。
私の人生に転機が訪れた(ように見えた)のは、2018年の冬のことである。私はとある接客業をすることになった。とても複雑な仕事で、毎日講習を受けた。しかし、私は何日経っても仕事を身に付けることができなかった。「笑顔」をモットーにする職場だった。私は幼少のころから愛想のいい人間ではない。私が笑顔を見せないことを、職場の課長はとてもとてもとてもとてもとても不快に思っていた。「笑顔」をモットーにする職場で笑顔を作れない私は課長に嫌われ、仕事も覚えられなかったので職場から孤立した。居心地の悪さに耐えられなかった私は、3か月で仕事を辞めた。
 
教訓4:愛想がない人間は仕事の幅が狭まる
 
私は2017年と2018年で10社ぐらいの会社を落ちたり辞めたりした。私は毎日自殺を考えた。県外に引っ越してデジタルハリウッドに通い、ウェブデザイナーを目指そうと考えたこともあったな(笑)。
私はある日、去年面接で落ちた会社がまた新人を募集していることを知った。私の母は、
「前に落ちた会社をまた受けても落とされるに決まっとるやろ」
と言った。
しかし私は、その会社の面接をまた受けることにした。結果は、採用だった。こうして私は今の職場になんとか定着することになる。今の職場は仕事がそこそこ楽だし、わりと自分に合っていると思う。仕事があることはとてもありがたいことだと一連の経験から身に染みてわかったので、今の仕事を大切にしていきたいと思っている。
 
教訓5:前に落ちた会社でも、再アタックしてみる価値はある
 

反省

 
こうして社会に出てみると、自分の学生時代に対して反省を加えたくなる。私は学生時代に就職に役立つスキルを身に付けてこなかったので、就職にとても苦労することになった。エンジニアやプログラマーなどになれるスキルを学校で身に付けた人達がとてもうらやましい。学生のころから就職に役立つスキルを貪欲に取得することが大切だ。
 
私は愛想がないので商売に向いていないし、先述の通り某接客業で孤立してしまった。今学生で愛想がない人達は、危機感を持つべきだ。そこら辺の求人で募集される仕事は接客業が多く、愛想を要求されることが多い。愛想がない学生たちは、愛想がなくてもうまくやっていける職業に就けるよう努力するべきである。そうしないと、私のように苦労することになる。
 
そして、今仕事を辞めようと思っている人達は、決断を早まらないほうがいい。一旦仕事を辞めたあとで新しい仕事に就こうとすると、とても苦労を強いられる。どうしようもなく辛い仕事なら辞めてもいいかもしれないが、多少甘えがあるなら仕事を続けるべきだ。そうしないと、私のように路頭に迷うことになる。

【哲学】人間の意志は理性的であると同時に感性的である。

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『知覚・言語・存在 メルロ=ポンティ哲学との対話』
円谷裕二
九州大学出版会
2014年発行
 
この本はフランスの哲学者メルロ=ポンティの思想を解説する学術書です。非常に難解な本で、第一章から第十一章までの内容は私にはほとんど理解できませんでした。ですが第十四章「倫理の存在論的可能性ーカント倫理学現象学的解釈の試み」は非常に読みやすく、しかも面白いと思いました。この章ではメルロ=ポンティの思想は出だしで取り上げられるだけで、あとはほとんどカント倫理学の解説です。カント倫理学における人間の意志と「理性の事実」の身分がよくわかる内容だったので、皆さんに紹介させていただきます。

要約

第十四章「倫理の存在論的可能性ーカント倫理学現象学的解釈の試み」の内容を要約すると、以下の通りです。
 

はじめに

 
メルロ=ポンティは、人間を理性的であると同時に感性的である存在者だとみなしています。感性界と叡智界の二世界説を提唱したカントのような伝統的な哲学を、メルロ=ポンティは厳しく批判します。著者の円谷氏は、感性界と叡智界を架橋するのに苦労したカントの二世界説を再構築しようと試みます。
 
第一節 カント倫理学における問題の所在
 
「人間の選択意志から生じるすべてのこと(例えば疑いもなく、意図的になされたすべての犯罪行為)は、自由な原因性を根拠にしている」(p.369)。
 
カントは、「道徳法則に従う行為(道徳的な行為)」における意志の自由だけでなく、「道徳法則に反する行為(不道徳な行為や普遍化不可能な行為)」にも意志の自由を認めていました。意志が叡智界に規定されていようが、感性界に規定されていようが、意志には自由が認められているのです。
 
第二節 感性的存在としての意志
 
「人間的選択意志は、衝動によって触発されるが、衝動によって規定されはしないような選択意志であり、それゆえ(理性による熟練を積まずに)自分だけでは純粋ではないが、しかしながら純粋意志に基づく行為へと規定されうるのである」(pp.370-371)。
 
人間の選択意志はつねに感性的であることから逃れられず、衝動によって触発されるものだとカントは考えています。しかし人間は、他の動物のように盲目的に衝動に従っているわけではありません。人間は不道徳な行為をするとき、衝動に服従することを自発的に選択しています。本当は不道徳な行為をしないことを選択することもできたのに、不道徳な行為をすることを自発的に選択するのです。カントによれば、人間は道徳的な行為をすることを選択することができるし、不道徳な行為をすることを選択することもできます。人間は自由だから、不道徳な行為をした人間は良心の呵責や後悔の念に苦しめられることになるのです。
 
第三節 悟性界の成員としての意志
 
神聖な意志においては意欲することが道徳法則に完全に一致しますが、人間の意志においては道徳法則が強制的な命令として迫ってきます人間は神ではない有限な理性的存在者であるからこそ、道徳法則を「理性の事実」として意識するのです。
 
第四節 〈あいだの存在〉としての意志
 
人間の意志は動物のように盲目的に衝動に従っているわけでもなければ、神のように道徳法則に完全に一致しているわけでもありません。人間の意志は英知体として叡智界に属すると同時に、感性的存在として感性界にも属しています。カント哲学における人間の意志は、叡智界と感性界の〈あいだにある存在〉です。人間の意志は叡智界と感性界のあいだに存在しつつ、あるときは普遍的な格率を選択し、またあるときは普遍的ではない格率を選択するのです。
 
第五節 理性の事実
 
人間は神ではない有限な理性的存在者であり、カント哲学における人間の意志は感性界と叡智界のあいだに存在しています。だからこそ、道徳法則は人間にとって「理性の事実」なのです。もしも人間が道徳法則に完璧に従える存在者だったら、道徳法則を義務的な強制として意識する必要はないでしょう。人間は不完全な生き物だからこそ道徳法則を「理性の事実」として強く意識するのであり、道徳法則に逆らうこともできるのです。

総括

「道徳法則に規定された意志は叡智界の一員なので、感性界には属していない。また、自然法則に規定された意志は感性界の一員なので、叡智界には属していない」という誤った解釈がカント倫理学に対して広く流布していると円谷氏は仰います。カント哲学における人間の意志はつねに叡智界と感性界の両方に属しています。メルロ=ポンティは人間を理性的であると同時に感性的である存在者だとみなしましたが、カント倫理学における人間の意志も理性的であると同時に感性的であるものなのです。
 
人間は道徳的な行為をすることもあれば不道徳な行為をすることもある、中途半端な生き物です。人間には道徳的な行為をする自由が与えられているし、不道徳な行為をする自由も与えられているとカントは考えていますだから不道徳な行為をした人間は良心の呵責や後悔の念に苦しめられるし、道徳法則を「理性の事実」として強く意識するのです。道徳法則が「理性の事実」として強く認識されるのは、道徳的な行為をしたときよりもむしろ不道徳な行為をしたときです

【特撮】仮面ライダージオウ第9話と「楯の会事件」

みなさんは今日放送された仮面ライダージオウの第9話を見ましたか?

エグゼイドに登場した檀黎斗社長が久しぶりに再登場しましたが、見ていて清々しいほどにイカれていましたねw

 

私は今回の第9話を見て、「この話は楯の会事件がモデルになっているのかな?」と思いました。

楯の会事件」は1970年に三島由紀夫という作家が起こした事件です。

三島は陸上自衛隊の駐屯地に突撃し、駐屯地のバルコニーで演説を行いました。

ジオウ第9話の檀黎斗王が演説する場面を見ていると、なんか三島の演説を思い出すんですよね。

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三島は駐屯地のバルコニーで渾身の演説をしましたが、地上にいる自衛官たちに「聞こえねえぞ」「引っ込め」などと野次を飛ばされました(ってWikipediaに書いてあった)。

檀黎斗王もお城の天守閣で演説を行いましたが、地上にいる記者に「そんなバカなことが許されると思っているのかーっっっ!!!」と野次を飛ばされています。

なんか似てませんか?(笑)

 

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あと、檀ファウンデーションの制服が、「楯の会」の制服に似ている気がします。

楯の会は三島が結成した民間防衛組織で、楯の会のメンバーは檀ファウンデーションのような制服を着るんですよ。

王様になりたいソウゴは檀黎斗王室直属の「騎士団長」になりましたが、楯の会には早稲田大学の森田必勝(左上の写真の髪の短い青年)などの若者たちが「隊員」として入隊したんですな。

 

ジオウ第9話のラスト付近では自衛隊の出動がほのめかされ、自衛隊が絡んでくることでますます事態が楯の会事件っぽくなってきたなと思いますw

第9話の脚本を書いた毛利亘宏さんは、楯の会事件をモデルにして今回のシナリオを執筆したのだろうか!?気になりますね。

 

なんだか三島由紀夫を微妙にdisっているような書き方になってしまいましたが、私は三島由紀夫は好きです。

『午後の曳航』と『奔馬』が特に好きで、中学生のころから何回も読み返していますね。