かるあ学習帳

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【哲学】人間の意志は理性的であると同時に感性的である。

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『知覚・言語・存在 メルロ=ポンティ哲学との対話』
円谷裕二
九州大学出版会
2014年発行
 
この本はフランスの哲学者メルロ=ポンティの思想を解説する学術書です。非常に難解な本で、第一章から第十一章までの内容は私にはほとんど理解できませんでした。ですが第十四章「倫理の存在論的可能性ーカント倫理学現象学的解釈の試み」は非常に読みやすく、しかも面白いと思いました。この章ではメルロ=ポンティの思想は出だしで取り上げられるだけで、あとはほとんどカント倫理学の解説です。カント倫理学における人間の意志と「理性の事実」の身分がよくわかる内容だったので、皆さんに紹介させていただきます。

要約

第十四章「倫理の存在論的可能性ーカント倫理学現象学的解釈の試み」の内容を要約すると、以下の通りです。
 

はじめに

 
メルロ=ポンティは、人間を理性的であると同時に感性的である存在者だとみなしています。感性界と叡智界の二世界説を提唱したカントのような伝統的な哲学を、メルロ=ポンティは厳しく批判します。著者の円谷氏は、感性界と叡智界を架橋するのに苦労したカントの二世界説を再構築しようと試みます。
 
第一節 カント倫理学における問題の所在
 
「人間の選択意志から生じるすべてのこと(例えば疑いもなく、意図的になされたすべての犯罪行為)は、自由な原因性を根拠にしている」(p.369)。
 
カントは、「道徳法則に従う行為(道徳的な行為)」における意志の自由だけでなく、「道徳法則に反する行為(不道徳な行為や普遍化不可能な行為)」にも意志の自由を認めていました。意志が叡智界に規定されていようが、感性界に規定されていようが、意志には自由が認められているのです。
 
第二節 感性的存在としての意志
 
「人間的選択意志は、衝動によって触発されるが、衝動によって規定されはしないような選択意志であり、それゆえ(理性による熟練を積まずに)自分だけでは純粋ではないが、しかしながら純粋意志に基づく行為へと規定されうるのである」(pp.370-371)。
 
人間の選択意志はつねに感性的であることから逃れられず、衝動によって触発されるものだとカントは考えています。しかし人間は、他の動物のように盲目的に衝動に従っているわけではありません。人間は不道徳な行為をするとき、衝動に服従することを自発的に選択しています。本当は不道徳な行為をしないことを選択することもできたのに、不道徳な行為をすることを自発的に選択するのです。カントによれば、人間は道徳的な行為をすることを選択することができるし、不道徳な行為をすることを選択することもできます。人間は自由だから、不道徳な行為をした人間は良心の呵責や後悔の念に苦しめられることになるのです。
 
第三節 悟性界の成員としての意志
 
神聖な意志においては意欲することが道徳法則に完全に一致しますが、人間の意志においては道徳法則が強制的な命令として迫ってきます人間は神ではない有限な理性的存在者であるからこそ、道徳法則を「理性の事実」として意識するのです。
 
第四節 〈あいだの存在〉としての意志
 
人間の意志は動物のように盲目的に衝動に従っているわけでもなければ、神のように道徳法則に完全に一致しているわけでもありません。人間の意志は英知体として叡智界に属すると同時に、感性的存在として感性界にも属しています。カント哲学における人間の意志は、叡智界と感性界の〈あいだにある存在〉です。人間の意志は叡智界と感性界のあいだに存在しつつ、あるときは普遍的な格率を選択し、またあるときは普遍的ではない格率を選択するのです。
 
第五節 理性の事実
 
人間は神ではない有限な理性的存在者であり、カント哲学における人間の意志は感性界と叡智界のあいだに存在しています。だからこそ、道徳法則は人間にとって「理性の事実」なのです。もしも人間が道徳法則に完璧に従える存在者だったら、道徳法則を義務的な強制として意識する必要はないでしょう。人間は不完全な生き物だからこそ道徳法則を「理性の事実」として強く意識するのであり、道徳法則に逆らうこともできるのです。

総括

「道徳法則に規定された意志は叡智界の一員なので、感性界には属していない。また、自然法則に規定された意志は感性界の一員なので、叡智界には属していない」という誤った解釈がカント倫理学に対して広く流布していると円谷氏は仰います。カント哲学における人間の意志はつねに叡智界と感性界の両方に属しています。メルロ=ポンティは人間を理性的であると同時に感性的である存在者だとみなしましたが、カント倫理学における人間の意志も理性的であると同時に感性的であるものなのです。
 
人間は道徳的な行為をすることもあれば不道徳な行為をすることもある、中途半端な生き物です。人間には道徳的な行為をする自由が与えられているし、不道徳な行為をする自由も与えられているとカントは考えていますだから不道徳な行為をした人間は良心の呵責や後悔の念に苦しめられるし、道徳法則を「理性の事実」として強く意識するのです。道徳法則が「理性の事実」として強く認識されるのは、道徳的な行為をしたときよりもむしろ不道徳な行為をしたときです