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『幻のポケモン ルギア爆誕』考察~「自己存在」から「共存在」へ~

今回は、ポケモン映画幻のポケモン ルギア爆誕(以下『ルギア爆誕』)を考察します。『ルギア爆誕』は、『ミュウツーの逆襲』に次ぐ2作目のポケモン映画です。

 

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幻のポケモン ルギア爆誕
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト99
1999年7月17日公開
おすすめ度:★★★★☆(脚本家の主張に違和感を覚えた)
 

ふところの大きい神様

 
ミュウツーの逆襲』は「自分の存在を認めること」がテーマになっている作品でしたが、『ルギア爆誕』のテーマはそれぞれの自己存在の共存」です。そうなんです。『ルギア爆誕は『ミュウツーの逆襲』のテーマを受け継いでおり、受け継いだテーマをさらに発展させた作品なのです。
 
まず、『ミュウツーの逆襲』は「自分の存在」を固めています。それに次ぐ『ルギア爆誕』は、固まった「自分の存在」や「他者の存在」が同じ環境に共存することを目指した作品なのです。シナリオの終盤でルギアがサトシに語ったセリフは、そのことをよく表しています。
 

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サトシ「すごいねー!ほんとにポケモンなの?」
ルギア「そう。この星にみんなといっしょに住んでいるポケモン
サトシ「でも、どうしてこんなことに?」
ルギア「いっしょに住んでいるから壊してはいけない」
サトシ「何を?」
ルギア「相手の世界を。お前にはお前、私には私。それぞれの世界がある」
サトシ「うん!」
 
ミュウツーの逆襲』のミュウツーの関心事はもっぱら「自分の存在」でしたが、『ルギア爆誕』のルギアは「自分の世界」だけでなく「他者の世界」にも配慮した発言をしています。自分探しのまっただ中にいるミュウツーの精神年齢は意外と思春期の少年ぐらいかもしれないと私は思っていますが、ルギアの精神年齢はかなり高そうです。ルギアは、他者や環境全体にも気を配ってものを考えています。
 
ルギアさん、器が大きいです。
 

サトシのママの爆弾発言

 
『ルギア爆誕』のラストでは、世界の崩壊を防ぐために奮闘したサトシのもとに、サトシのママが駆けつけます。なんとママはサトシを全然ほめず、それどころか厳しく叱りつけます。
 

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ママ「サトシ!見てたわよ!なんて危ないことするの!」
カスミ「でも、サトシは、この世界を救ったんですよ?」
ママ「それがなんなの?あなたはまだ子供なんだから、無茶はダメ!世界を救う?命がけでする事?サトシがいなくなったら、サトシの世界はもうないの。私の息子はもういないの!あなたがいるから、世界はあるの!…サトシ、あなたはこの世界で何をしたかったの?」
サトシ「俺は…ポケモンマスターに」
ママ「だったら、無茶せずに、それを目指しなさい?」
サトシ「だよね!」
 
サトシのママが言いたいことは、一応わかりますよね。ママにとってサトシは大事な息子さんですから、サトシには自分の命を大切にしてもらいたいんでしょう。そして、ルギアが言う通り、他者だけでなく自分にも世界があるから、無茶をして自分の世界を壊さないほうがいい。それはわかるんですが、何かが微妙に変な感じがしますよねw
 
サトシは『ミュウツーの逆襲』では自己犠牲によってミュウツーの心を改心させましたし、『ルギア爆誕』では命がけで世界を救いました。ところがママはサトシが無茶をすることを戒め、憧れのポケモンマスターになることを目指せと言っています。解釈次第では、今までサトシが自分の身をなげうって一生懸命やってきたことを否定しているように受け取れる発言ですよね。
 
そりゃないぜ、母さん!
 

自己中気味の共生思想

 
『ルギア爆誕のラストでサトシのママが発した少し奇妙な発言の真意を汲み取るためには、脚本家の首藤剛志さんの思想を理解する必要があります。首藤さんのコラムには、こんなことが書いてありました。
 
 だが、僕の考える共存とはーーかなりへそまがりに感じられるかもしれないし、僕自身も、人が通常感じるイメージと違うだろうと自覚しているのだがーー自分の自己存在を尊重し、自分の思い通りの生き方をして、なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、一緒に生きているということなのである。
 世界の中心にいるのは自分であり、自分がいなくなれば、少なくとも自分の世界はなくなり、自分のいない世界はそれは世界ではない。
 
はっきり言って、私は首藤さんのこの思想に少し共感していません。首藤さんがおっしゃる通り、首藤さんの考える共存は私たちの直感にやや反するものだと感じます。私よりも頭が切れて辛口な人間ならば、首藤さんの共生思想の詰めが甘いところを容赦なく批判するだろう(笑)。でも、具体的な批判を書いたら皆さんの気分を害してしまうでしょうから、私はこれ以上深入りしないことにします。
 

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ともかく、首藤さんは「自分の存在」を重視する脚本家だということがわかりますよね。「私は誰だ?」と考えている人でも、考えているからには、存在しているということは間違いない。自分が他者と共存するためには、自分の存在がなければならない。なにをするにしても「自分の存在」が足場になっているのだと首藤さんは考えていらっしゃって、その思想が『ミュウツーの逆襲』『ルギア爆誕には表れているというわけですね。

ミュウツーとエヴァンゲリオン~世界の中心でアイを叫んだポケモン~

今回は、アニメ版ポケモンのテレビスペシャミュウツー我ハココニ在リ』を考察します。『ミュウツー!我ハココニ在リ』は、映画『ミュウツーの逆襲』の続編です。ついでに、『ミュウツー!我ハココニ在リ』とTV版『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話を比較します。

 

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ミュウツー!我ハココニ在リ』
総監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
2000年12月30日放送
おすすめ度:★★★★☆(エンタメ度は『逆襲』より上)
 

我思ウ、故ニ我在リ

 
ミュウツー!我ハココニ在リ』を考察する前に、映画『ミュウツーの逆襲』のラストについて述べさせてください。『ミュウツーの逆襲』のラストでは、サトシとカスミたちがこんな会話をします。
 

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映画『ミュウツーの逆襲』より

(C)ピカチュウプロジェクト98

サトシ「でも、なんで俺たちこんなところにいるんだ?」
カスミ「さあ?いるんだからいるんでしょうねー!」
トゲピー「チョキプリィィ!」
サトシ「ま、いっか!」
カスミ「うん!」
ピカチュウ「ピカ、ピカ」
 
ミュウツーの逆襲』では、「私とは誰か?」「自分の存在理由とは何か?」が問われます。なぜ私たちはここにいるのか、オリジナルのポケモンとコピーのポケモンはどっちが強いのか。これらの問題の答えは、最後まで結局よくわかりません。
 
でも、「なんで俺はここにいるんだ?」と考えている人でも、ものを考えているからには、存在しているということは間違いない。そして、オリジナルのポケモンもコピーのポケモンも、みんな生きているということは間違いない。とりあえず、「存在している」「生きている」ということは間違いないから認めようぜ!…というのが『ミュウツーの逆襲』のオチでした。
 

「生きている」から「生きていい」への変化

 
ミュウツーは、『ミュウツー!我ハココニ在リ』でも相変わらず「私は誰だ?」と問い続けています。しかし、『ミュウツーの逆襲』のころよりもミュウツーの性格はかなり丸くなっています。ミュウツーは無駄な争いをしなくなりましたし、自分の身を犠牲にして仲間のコピーポケモンを守ったりもします。
 

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ミュウツーは『ミュウツー!我ハココニ在リ』で、私は少なくとも、この星に生きていい生き物だ」ということに気付きます。そしてミュウツーは、コピーポケモンでもこの星のどこででも生きていける資格がある」という結論を出します。ミュウツーの逆襲』は存在していることや生きていることを「認める」作品でしたが、ミュウツー!我ハココニ在リ』は存在していることや生きていることを「良しとする」作品だと思います。ただ単に「生きている」だったのが、「生きていい」という肯定に変わっているんですよね。
 
ミュウツー!我ハココニ在リ』のオチでは、大都会でミュウツーの存在が都市伝説として囁かれるようになるのですが、これは非常に上手い落とし所だったと思います。ミュウツー!我ハココニ在リ』は、伝説のポケモンと呼ばれるミュウツーが「都市伝説」という意味で伝説になるまでの過程を描いた物語だと解釈できますね。
 

全てのポケモン達におめでとう

 
ミュウツーの逆襲』『ミュウツー!我ハココニ在リ』は「自分の存在を認め、良しとする」物語だと私は解釈していますが、TV版『新世紀エヴァンゲリオン』最終話世界の中心でアイを叫んだけもの」でも同じテーマが扱われていると思います。TV版エヴァの最終話では、主人公・碇シンジの「心の補完」が行われます。
 

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TV版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」より

(C)GAINAX/Project Eva.・テレビ東京

「僕はここにいてもいいのかもしれない」
「そうだ。僕は僕でしかない」
「僕は僕だ。僕でいたい!」
「僕はここにいたい!」
「僕はここにいてもいいんだ!!」

 

シンジは長い問答を続けた末、「自分はここにいてもいい」という結論を出し、みんなに祝福されます。TV版エヴァの最終話は「自分の存在を認め、良しとする」オチでしたから、『ミュウツー!我ハココニ在リ』と同じような結論に辿り着いています。
 
TV版エヴァの最終話は一応さわやかな感じがする結末ではありますが、放送当時は視聴者からの厳しい批判が殺到したそうです。登場人物の内面のことばかり説明されていて「人類補完計画の謎が一切明かされていないとか、シンジが椅子に座って問答をする様子が怪しい自己啓発セミナーみたいだとかいった苦情が噴出したようです。*1正直、もっともな批判だよなあと思います(苦笑)。
 
TV版エヴァの最終話ではシンジが「自分の存在を認め、良しとする」ことにある意味成功しましたが、それまでの流れがあまりにも強引だったと思います。一方、『ミュウツーの逆襲』『ミュウツー!我ハココニ在リ』では、同じテーマが最初から丁寧に追求されているといってよいでしょうポケモンは全てにおいてエヴァに勝るなんてことは全然思いませんが、「自分の存在を認め、良しとする」ことについてはポケモンのほうがTV版エヴァよりも断然上手かったと思います。

*1:前島賢セカイ系とは何か』、星海社文庫、二〇一四、四一~四三頁。

『ミュウツーの逆襲』と『社会的ひきこもり』~ニャースが得たものと失ったもの~

今回は前回に引き続き、1998年に公開された映画『ミュウツーの逆襲』を考察します。今回はニャースに注目して考察します。

 

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ミュウツーの逆襲』
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト98
1998年7月18日公開
 

ニャースの諦観

 
ミュウツーの逆襲』の終盤では、ミュウツーをはじめとするコピーポケモンとミュウをはじめとするオリジナルポケモンが、自己の存在を賭けた痛々しいバトルを繰り広げます。しかし、オリジナルのニャースとコピーのニャースだけは、戦わずにのんびりと月を眺めます。なぜ他のポケモンが争っているのに、ニャースだけは争わないのでしょうか?脚本家の首藤さんのコラムに、その理由が詳しく書いてありました。
 

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 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。
 自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?
 なんとなくロケット団ニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。
 「今夜の月は満月だろな……」
 自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団ニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観ることができる。
 達観諦観わびさびの世界のようなものである。
 

ニャースが得たものと失ったもの

 
TVアニメ版ポケモンの第72話「ニャースのあいうえお」では、ニャースが人間と同じ言語をしゃべれるようになった理由が明かされています。
 

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第72話「ニャースのあいうえお」より

出典:http://www.himatubuenter.com/article/456939896.html

ニャースはメスのニャースである「マドンニャ」のことが好きになり、マドンニャが好きな人間になるために人語や二足歩行を習得する訓練をします。しかし、ニャースは人語や二足歩行を習得した代償として、進化や新しい技の習得ができなくなります。ニャースはマドンニャに告白しますが、「人間の言葉をしゃべるポケモンは気持ち悪い」という理由で振られます。その後、グレたニャースロケット団に入団します。*1
 
ニャースは人語や二足歩行を習得したものの、マドンニャが好きな人間になるのに失敗した。ニャースは進化や技の習得ができなくなったので、本来のポケモンになるのにも失敗した。そこまではわかりますが、これらの挫折がどうして「諦観」や「達観」に繋がるのかがちょっとわかりにくいですよね。ちなみに「諦観」や「達観」というのは、「悟りの境地」といった意味の言葉です。
 

「去勢」されたポケモン

 
精神科医斎藤環さんが書いた『社会的ひきこもり』という本があります。この本には、こんなことが書いてありました。
 

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まず「去勢」について簡単に説明しておきます。(中略)精神分析において「ぺニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。*2
 
ニャースは成長の途中で、マドンニャという異性との関わりを通じて、人間や本来のポケモンになることに失敗しました。精神分析用語を借りれば、ニャースは「去勢」されたポケモンだと言えますね。また、『社会的ひきこもり』には、続けてこう書いてありました。次の文言は、『ミュウツーの逆襲』ニャースミュウツーを考察するのにとても役に立ちます。
 
 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。*3
 

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映画『ピチューピカチュウ』より

(C)ピカチュウプロジェクト2000

ニャースロケット団の業務をしたり、アルバイトをこなしたりします。ニャースは「去勢」されており、人間社会に参加できるので大人です。ニャースは挫折を経験して社会性を身に付けており、そのうえで自分の身の振り方を悟っているのでしょう。去勢」されて成熟していることが、ニャースの「諦観」や「達観」に繋がっているんだと思います。
 
一方、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーは万能の存在であり、明らかに「去勢」されていません。ミュウツーは、能力に恵まれているために社会性に欠けるエリートそのもののような存在です。ミュウツーは何の苦労もせずに人語や二足歩行を習得しており、強力な技も使えるのでニャースの上位互換のように思えますが、人間の社会に要領よく溶け込める存在ではないと思います。
 

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ミュウツーニャースのように悟っていないので、「私は誰だ?」と悩むことになるのだと思います。もしかしたら、ニャースのほうがミュウツーよりも精神年齢は上かもしれませんね。自分探しのまっただ中にいるミュウツーは、頭が良くても精神年齢は意外と思春期の少年ぐらいかもしれない。『ミュウツーの逆襲』の続編である『ミュウツー!我ハココニ在リ』は、そんなミュウツーの成長物語だといえます。

*1:参考:「ニャースがしゃべる理由!!意外と知らない悲しい話!?」

*2:斎藤環『社会的ひきこもり』、PHP新書、1998年、二〇六頁。

*3:Ibid.