かるあ学習帳

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『ミュウツーの逆襲』と『社会的ひきこもり』~ニャースが得たものと失ったもの~

今回は前回に引き続き、1998年に公開された映画『ミュウツーの逆襲』を考察します。今回はニャースに注目して考察します。

 

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ミュウツーの逆襲』
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト98
1998年7月18日公開
 

ニャースの諦観

 
ミュウツーの逆襲』の終盤では、ミュウツーをはじめとするコピーポケモンとミュウをはじめとするオリジナルポケモンが、自己の存在を賭けた痛々しいバトルを繰り広げます。しかし、オリジナルのニャースとコピーのニャースだけは、戦わずにのんびりと月を眺めます。なぜ他のポケモンが争っているのに、ニャースだけは争わないのでしょうか?脚本家の首藤さんのコラムに、その理由が詳しく書いてありました。
 

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 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。
 自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?
 なんとなくロケット団ニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。
 「今夜の月は満月だろな……」
 自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団ニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観ることができる。
 達観諦観わびさびの世界のようなものである。
 

ニャースが得たものと失ったもの

 
TVアニメ版ポケモンの第72話「ニャースのあいうえお」では、ニャースが人間と同じ言語をしゃべれるようになった理由が明かされています。
 

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第72話「ニャースのあいうえお」より

出典:http://www.himatubuenter.com/article/456939896.html

ニャースはメスのニャースである「マドンニャ」のことが好きになり、マドンニャが好きな人間になるために人語や二足歩行を習得する訓練をします。しかし、ニャースは人語や二足歩行を習得した代償として、進化や新しい技の習得ができなくなります。ニャースはマドンニャに告白しますが、「人間の言葉をしゃべるポケモンは気持ち悪い」という理由で振られます。その後、グレたニャースロケット団に入団します。*1
 
ニャースは人語や二足歩行を習得したものの、マドンニャが好きな人間になるのに失敗した。ニャースは進化や技の習得ができなくなったので、本来のポケモンになるのにも失敗した。そこまではわかりますが、これらの挫折がどうして「諦観」や「達観」に繋がるのかがちょっとわかりにくいですよね。ちなみに「諦観」や「達観」というのは、「悟りの境地」といった意味の言葉です。
 

「去勢」されたポケモン

 
精神科医斎藤環さんが書いた『社会的ひきこもり』という本があります。この本には、こんなことが書いてありました。
 

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まず「去勢」について簡単に説明しておきます。(中略)精神分析において「ぺニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。*2
 
ニャースは成長の途中で、マドンニャという異性との関わりを通じて、人間や本来のポケモンになることに失敗しました。精神分析用語を借りれば、ニャースは「去勢」されたポケモンだと言えますね。また、『社会的ひきこもり』には、続けてこう書いてありました。次の文言は、『ミュウツーの逆襲』ニャースミュウツーを考察するのにとても役に立ちます。
 
 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。*3
 

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映画『ピチューピカチュウ』より

(C)ピカチュウプロジェクト2000

ニャースロケット団の業務をしたり、アルバイトをこなしたりします。ニャースは「去勢」されており、人間社会に参加できるので大人です。ニャースは挫折を経験して社会性を身に付けており、そのうえで自分の身の振り方を悟っているのでしょう。去勢」されて成熟していることが、ニャースの「諦観」や「達観」に繋がっているんだと思います。
 
一方、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーは万能の存在であり、明らかに「去勢」されていません。ミュウツーは、能力に恵まれているために社会性に欠けるエリートそのもののような存在です。ミュウツーは何の苦労もせずに人語や二足歩行を習得しており、強力な技も使えるのでニャースの上位互換のように思えますが、人間の社会に要領よく溶け込める存在ではないと思います。
 

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ミュウツーニャースのように悟っていないので、「私は誰だ?」と悩むことになるのだと思います。もしかしたら、ニャースのほうがミュウツーよりも精神年齢は上かもしれませんね。自分探しのまっただ中にいるミュウツーは、頭が良くても精神年齢は意外と思春期の少年ぐらいかもしれない。『ミュウツーの逆襲』の続編である『ミュウツー!我ハココニ在リ』は、そんなミュウツーの成長物語だといえます。

*1:参考:「ニャースがしゃべる理由!!意外と知らない悲しい話!?」

*2:斎藤環『社会的ひきこもり』、PHP新書、1998年、二〇六頁。

*3:Ibid.