かるあ学習帳

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『仮面ライダーゼロワン』批評~人間の責任を考える~

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9月から、令和初の仮面ライダー仮面ライダーゼロワン』の放送が始まりました。『ゼロワン』では、祖父の遺言を受け22歳の若さで社長になった主人公・飛電或人たちと、テロ組織「滅亡迅雷.net」の戦いが(主に)描かれます。或人は仮面ライダーゼロワンに変身し、秘書型AIであるイズの助けを借りて敵と戦います。

 
第9話では、「主人公が社長で、社長秘書がAI」という設定が光り輝いていると思いました。そこで今回は、第9話を批評します。
 

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第9話は、国立医電病院が滅亡迅雷.netに襲撃されたところから始まります。病院で働いているAIがテロ組織にハッキングされ、病院で暴動が起こります。AIが暴走したことにより、AIを開発した或人の会社・飛電インテリジェンスは苦境に立たされます。
 

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副社長の副添は、病院のAIをシャットダウンすることを提案します。社長秘書AIのイズは病院のAIをシャットダウンすることに反対しますが、副社長秘書AIのシェスタは病院のAIをシャットダウンすることに賛成します。2人のAIの意見は、真っ向から対立します。どのように判断すれば良いのか非常に難しい状況で、或人に社長としての決断が迫られます。
 

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山下「社長、ご判断を」
 
ここで唐突ですが、新潟大学の宮﨑裕助先生がTwitterで非常に参考になることをおっしゃっていたので、引用します。たぶん宮﨑先生は『ゼロワン』をご覧になっていないかと思いますが(笑)、宮﨑先生のご意見は『ゼロワン』を批評するのに有用です。
 

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「人間vs機械(AI)の古典的対立を前提としていうと、計算不可能なものや決定不可能なものに判断と決定を下し、その結果に責任を負うことができるのは人間主体だけである。逆に言うと、人間なるものに存在理由があるとすれば、決定不可能なものに応答責任を負うことができるというその一点である。*1
 
AIは頭の回転が早いので、計算やはっきりした答えが出る問題はパパッと解いてすぐに答えを出します。しかし厄介なのは、計算や推論をしても明晰な答えが出せない曖昧な問題や、短絡的に答えを出してはならないデリケートな問題です。こうした問題は、AIに頼らず人間が責任を持って決断しなければならない問題でしょう。第9話では、そんな「決定不可能な問題」が或人に突きつけられたわけです。
 

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決定不可能な問題に対して自分なりの決断を下し、応答責任を取るのはAIではなく人間がするべき仕事かと思います特に人間の社長は集団のボスであり責任者ですから、決定不可能な問題に応答責任を取りまくらなければなりません。社長や責任者というのは、今のご時世ではAIに任せるべきでなく人間にこそ任せるべき仕事という意味で、実に「人間的な」仕事だと私は思っています。
 
こうしてみると、『ゼロワン』の主人公が「人間の社長」で、主人公のサポート役が「AIの秘書」という設定はよく出来てるなあと思います。人間は決定不可能な問題に対して応答責任を取らなければならないのですが、その代表例は社長を務める人間でしょう。大抵の場合、AIは決定不可能な問題に対して応答責任を十分に取れないでしょうから、今のところしょせん人間の補佐であり秘書のようなものだと思います。*2こういう責任の問題まで考えて「主人公が社長で、社長秘書がAI」という設定になっているのだとしたら、『ゼロワン』って本当に凄い作品ですよね。
 

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或人「イズ、社長命令だ」

(C)2019 石森プロ・テレビ朝日ADK EM・東映

*1:AIに自我が芽生えたらAIでも決断や責任の主体になりうるんじゃないかっていうツッコミがありそうですが、今回は深く触れない方向でオナシャス。

*2:AIとはいえ、滅亡迅雷.netの迅と滅はちょっと違うと思いますが。

『裂空の訪問者 デオキシス』批評~奥行きのある世界~

今回は、ポケモン映画第7作『裂空の訪問者 デオキシス(以下『裂空の訪問者』)を批評します。いきなり嫌な話になるのですが…この映画はネットでの評判があまり良くないです。某匿名掲示板のつまらなかったポケモン映画を挙げるスレとかで、この映画が酷評されているのをたまに見かけます。

 
…確かに、この映画のシナリオはそれほど面白くはないかもしれません(オイ)。でも、私はこの映画が好きです。なぜなら、この映画では世界観に奥行きが感じられるからです。これから、世界観に奥行きが感じられるというのはどういうことなのかを説明します。
 

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『裂空の訪問者 デオキシス
監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)ピカチュウプロジェクト
2004年7月17日公開
おすすめ度:★★★☆☆世界観に奥行きが感じられるところが良い)
 

様々なる視点

 
・マクロな視点:「宇宙人」と「怪獣」の戦い

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『裂空の訪問者』では、伝説のポケモンデオキシスレックウザの戦いが描かれます。デオキシスは宇宙からやって来たポケモンで、ウルトラマンでいう「宇宙人」のような外見をしています。デオキシスに縄張りを侵入されたレックウザは、ウルトラマンでいう「怪獣」のような(ちょっと苦しいかも…)外見をしています。強大な「宇宙人」と「怪獣」の戦いが、物語の軸になっています。
 
デオキシスはラルースシティに現れ、街中を混乱に陥れます。しかし、デオキシスは人々や他のポケモンを苦しめたり、世界を侵略したいわけでは(おそらく)ありません。ネタバレになるので詳しいことは書きませんが、デオキシスにはこいつなりの事情があったのです。デオキシスは「侵略者」でもなければ「破壊者」でもなく、題名の通り「訪問者」だよなあと思います。
 
・社会的な視点:混乱した街の群衆

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『裂空の訪問者』では、デオキシスレックウザの戦いで混乱した街の人々やポケモンたちの様子が描かれます。大勢の人々は避難しますが、街に残されたサトシたちは力を合わせて困難と戦います。街に残された人々やポケモンたちがただ単に協力するだけじゃなくて、科学の力を借りて災難に立ち向かっているところが良かった。「かがくの ちからって すげー!」という、ポケモンらしいアプローチになっていると思いました。
 

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この映画の終盤では、街のガードシステムが暴走します。まさかラストで人間でもポケモンでもないテクノロジーとの戦いが描かれるとは思わなかったんだよなあ…。正直気軽に口に出したくない話題ですが、日本でも震災のような厄災が起きると、それに伴ってテクノロジーの事故が起こる場合がありますよね…。原発事故とか。
 
・ミクロな視点:トラウマを抱えた個人の救済

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『裂空の訪問者』には、トオイという非常に臆病な少年が登場します。トオイは、4年前にデオキシスレックウザの戦いに巻き込まれたことにより、心にトラウマを負いました。ポケモンや人間との関わりを極度に避けていたトオイは、サトシたちとの出会いによって心を癒します。この映画はけっこうスケールが壮大な作品ですが、トオイという個人の救済と成長の物語でもあります。
 

奥行きのある世界

 
『裂空の訪問者』は、災難に見舞われたラルースシティの様子を視点を変更しながら捉えた作品だと思います。街の上空でダイナミックに戦う伝説のポケモンに焦点を合わせたり、その影響下で必死で生きている人間やポケモンを描いたり、トラウマを抱えた個人の成長をクローズアップしたり。この映画は大きな出来事を焦点や倍率が異なる視点で見ているように感じられたので、そういう意味で「立体的」だし「奥行きがある」作品だと思いました。
 
最後に話がだいぶ飛躍していることを承知で言うと、今の日本社会はなんだか『裂空の訪問者』みたいな感じがする。今の日本には地震や台風のように大きな災害が来るし、そんな中で全力で戦ったり逃げ回ったりする人たちがいるし、個人的で深刻な悩みを抱えている人たちもいる。『裂空の訪問者』って、日本社会の縮図みたいだな…と思ってしまった。

イェーツ「Vacillation」I節を読む~『燃えあがる緑の木』第二部を手がかりにして~

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「Vacillation」(『対訳 イェイツ詩集』所収)

イェーツ(高松雄一編)
2009年初版発行
 
今回は、アイルランドの詩人・イェーツの詩Vacillation(ヴァシレーション)」を解読します。「vacillation」という単語は、日本語では「動揺」「揺れ動く」と訳される単語です。岩波文庫の高松訳では「動揺」と訳され、大江健三郎は「揺れ動く」と訳しています。題名について語るのはこれぐらいにして、さっそくこの詩のI節目を読んでみましょう。
 
I
人は二つの極のあいだにいて
おのれの道を走る。
炬火(たいまつ)が、火を吐く息が
現れて、昼と夜の
あの背反を
ことごとく抹殺する。
肉体はこれを死と呼び、
心はこれを悔恨と言う。
だがそれが正しければ
歓びとは何だ?
(高松訳)
 
…この詩を読んで、難しいと感じた方は多いのではないかと思います。でも、大江健三郎の『燃えあがる緑の木』第二部を読めば、このI節目と続きのII節目の意味はある程度わかるようになると思います。『燃えあがる緑の木』第二部は小説であるだけでなく、イェーツの詩の解説としても読める本です。では、『燃えあがる緑の木』第二部を手がかりにして、I節目を解読してみましょう。
 

I節目の解読・ザッカリーの場合

 
I節目の冒頭には、人は「二つの極のあいだ」にいると書いてあります。これは、人は「〈愛〉と〈憎しみ〉」や「〈善〉と〈悪〉」のような正反対の概念にはさまれて生きているということだと解釈できます。そんな人や人生を、「たいまつ」や「火を吐く息」が破壊するのです。問題はその後です。『燃えあがる緑の木』第二部のザッカリーのセリフを読んでみましょう。
 

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 ーたいまつか、または燃える息の一触で、この世の生が終ったとしよう。肉体は破壊されて転っている。確かにここにあるのは死だね。一方、来世から魂が、……heartだから、心と訳した方がいいかも知れないけれど、ともかく肉体に対立するものが、現世の来し方をふりかえる。そうやって、矛盾のままに生きた生を後悔する……(『燃えあがる緑の木』第二部pp.260-261)
 
どうやらI節目の後半部分では、人生の終わりについて書いてあるみたいですね。人間の人生は矛盾に満ちたもので、そんな人生が終わるとき、肉体はもちろん死ぬ。一方、そのとき心は自分の人生を悔やむ。なんだか嫌な話ですが、I節目のラストでは喜びについて書いてあります。
 
 それに対してね。破壊されたにしても、肉体が現世で味わった喜び、矛盾のなかであれ、魂が感受していた喜びが無意味なものか?決してそんなことはない。
 Between extremities/Man runs his course;そのこと自体に意味がある、永遠のサイドから見たらばさ。味わった喜びがそのしるしだ、というんじゃないだろうか?(『燃えあがる緑の木』第二部p.261)
 
人間の人生は矛盾に満ちたものですが、生きているうちに味わった喜びにはちゃんと意味がある。喜びは、その人が意味のある人生を送った証拠だ…という話ですね。『燃えあがる緑の木』第二部のザッカリーは、イェーツの詩をこのように解釈しました。
 

I節目の解読・K伯父さんの場合

 
『燃えあがる緑の木』第二部では、K伯父さんもI節目を解説しています。
 

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 イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ……それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう?ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜びなんだね。(『燃えあがる緑の木』第二部p.263)
 
〈永遠〉と〈瞬間〉というのは「対立する」概念でありながら、「両立する」概念でもあります。『燃えあがる緑の木』第一部でギー兄さんが言う通り、〈瞬間〉は〈永遠〉に対抗する概念です。しかし、〈永遠〉は〈瞬間〉の連続でもあります。〈瞬間〉といえるほど短い間でも喜びを感じたら、その喜びは〈永遠〉といえるほど長い時間に繋がっているのです。少し、K伯父さんだけでなく私の解釈も混じっていますが(苦笑)。*1
 
とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても……それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(『燃えあがる緑の木』第二部pp.264-265)
 
〈瞬間〉は〈永遠〉に含まれるといえるし、私たち〈個人〉も人間〈全体〉に含まれるといえます。喜びを感じた〈瞬間〉は〈永遠〉に意味を与えるし、喜びを感じた〈個人〉は人間〈全体〉を祝福できるかもしれない。喜びは、束の間の喜びでも、深いところで大きなものに繋がっているのです。だから『燃えあがる緑の木』では、喜びという感情が重要な役割を担っているのでしょう。最後に、堂島孝平「6AM」という曲の歌詞を引用します。キザなことは、百も承知なのさ。
 
ああ 永遠とは瞬間の連続 常に目の前にあるなら
一瞬を 一瞬を 君と重ねたいなんて思ったこの一瞬とかいろんな一瞬を

*1:ちなみに、〈永遠〉と〈瞬間〉は対立するが共存しているというK伯父さんの説には、私とは別の解釈があると思います。今回の解釈は、私にとって一番しっくりくる解釈にすぎません。