かるあ学習帳

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『ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ』批評~水と母性の物語~

今回は、ポケモン映画第9作ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ(以下『マナフィ』)をレビューします。ちょっとしたレビューですので、気軽におつきあいください。

 

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監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)ピカチュウプロジェクト
2006年7月15日公開
おすすめ度:★★★★☆(収入が振るわなかった割には、かなり面白かった)
 

水と母性の物語

 

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マナフィ』は、いわゆる海洋アドベンチャー映画です。サトシ達は幻のポケモンマナフィを海底神殿に送り届けます。第7作、第8作には悪役が登場しませんでしたが、今作では悪役として海賊ファントムが登場します。『マナフィでは、水中の生態や海底神殿が美しい映像で描写されています。どちらかと言うと「カッコ良さ」よりも「美しさ」を追求した映像に仕上がっていると思いました。
 

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卵から孵化したマナフィはハルカを母親だと思い、ハルカになつきます。ポケモン映画には「サトシ無双」なところがあり、主人公・サトシが出番をゴッソリ持っていくことが多いです。しかし『マナフィ』では、マナフィの「母親」であるハルカにかなり焦点が当てられています。準主人公のハルカが活躍する作劇になっていました。
 

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ハルカは生誕したマナフィを自分の子供のようにかわいがります。この映画では、誕生した命を愛でるハルカの母性が描かれます。しかし、マナフィとハルカは離別する宿命にあります。ポケモン映画第3作『結晶塔の帝王』は「娘が父親から自立する」物語でしたが、『マナフィ』は「息子が母親から自立する」物語です。*1
 

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物語の終盤では伝説のポケモンカイオーガが登場するのですが、これは個人的に嬉しかったですね。カイオーガはゲーム版では強くて評判のポケモンですから、映画に出ることを強くアピールしたらもっと収入が増えたんじゃないかな、この映画w
 

マナフィの耐えられない軽さ

 
感覚的な話になってしまいますが、私はこの前観た『ミュウと波導の勇者ルカリオ』よりも『マナフィの方が面白いと思いました。私は『マナフィを気に入っているのですが、この映画は興行収入がいまいち良くありません(苦笑)。マナフィ』の興行収入は34億円で、この時期のポケモン映画にしてはかなり低めの成績です。あと、また感覚的な話になってしまうのですが、マナフィは他のポケモン映画と比べて「影が薄い」イメージがあるんですよね…。
 

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マナフィ』の興行不振や『マナフィ』の影の薄さは、マナフィというポケモン自体にあるような気がします。マナフィの見た目や挙動はとてもかわいいし、映画を観ていると愛着が湧きます。でも、マナフィには幻のポケモンにしては神々しさが足りないと思うし、一時間半を超える長編映画を引っ張っていけるほどの存在感も足りない気がするんだよなあ…。厳しい意見かもしれませんが。
 
ポケモン映画第5作『水の都の護神』も、初期のポケモン映画にしては興行が振るいませんでしたね(26.7億円)。『マナフィ』も『水の都の護神』も、「水が豊かで美しい世界観」と「女の子にもウケそうな作劇」が持ち味の作品だと思います。ポケモン映画を観に行くのは女の子よりも男の子が多く、少年たちはポケモン映画に「カッコ良さ」や「燃え」を期待しているのかもしれません。だから、女の子が好きそうな『マナフィ』や『水の都の護神』はあまりヒットしなかったのかなあ…なんて思ったりもする。
 
今回は短いですがこの辺で。マナフィ興行収入知名度の割にかなり面白い、と胸を張って言いたい。

*1:マナフィがサトシを「父親」だと思っている節がありますが、「父と子」の依存関係はこの作品では強調されていないと思います。

『ミュウと波導の勇者ルカリオ』批評~厨二、人情、歴史~

今回は、ポケモン映画第8作ミュウと波導の勇者ルカリオ以下『ルカリオ』)を批評する。
 

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監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)ピカチュウプロジェクト
2005年7月16日公開
おすすめ度:★★★★☆(少年漫画のような熱さ。男の子におすすめ)
 

厨二、人情、歴史

 

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Youtubeで『ルカリオ』のMADを観ていたら、この映画には男の大好きな厨二と人情と歴史が物語いっぱいに散りばめられている。」というコメントを見付けた。このコメントは、ルカリオ』という作品の魅力を端的に表現していると思う。
 

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まずは、「厨二」である。サトシ達はオルドラン城という由緒ある城を訪れ、中世ファンタジーのような服装に着替えてイベントに参加する。サトシ達は、ミュウによって連れ去られたピカチュウニャースを探すため、ミュウが住む「世界のはじまりの樹」に向かう。異世界ファンタジー風の世界観といい、世界樹をめぐる冒険といい、いかにも厨二が好きそうだ。他のフィクションではよくある話なのだが、科学が発達したポケモンの世界でやると新鮮に感じられる。
 

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次に、「人情」である。この映画では、封印されたポケモンルカリオと伝説の勇者アーロンの時空を超えた絆が描かれる。ルカリオとアーロンは主従関係で結ばれており、ルカリオはアーロンに仕える忠実な従者である。ポケモンと対等な「友達」であろうとするサトシと、主人アーロンに忠実な「従者」であろうとするルカリオは対立する。しかしサトシとルカリオの間には、冒険を共にするうちに絆が芽生え始める。こう書いてみると、「人情」というよりは「人間とポケモンの絆」を描いた映画と言うべきだろうか。
 

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最後に、「歴史」である。『ルカリオ』では、まだモンスターボールがなかった大昔の歴史が(断片的にだが)紐解かれる。モンスターボールによって管理されておらず、武装したポケモンと人間の軍勢が戦争をしている様子が描かれている。大勢のモンスターと人間による戦闘は既視感のある光景だが、これもポケモンでやると新鮮に感じられた。
 

90年代後半のミュウ、ゼロ年代のミュウ

 
ルカリオ』には、ポケモンの先祖だと言われるミュウが登場する。ポケモン映画のシナリオにミュウが大きく介入するのは、『ミュウツーの逆襲』に続いて2回目である。
 

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映画『ミュウツーの逆襲』より

ミュウツーの逆襲』では、ミュウのコピーであるミュウツーの葛藤が描かれた。『ミュウツーの逆襲』は、自己存在をめぐる陰鬱で内向的なドラマである。セカイ系」や「心理主義」という言葉で統括される90年代後半の雰囲気が、『ミュウツーの逆襲』にもよく表れていると思う。

 

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一方『ルカリオ』は考察要素が乏しいのだが、冒険と絆と壮大な歴史を描いた熱いドラマである。ミュウツーの逆襲』と『ルカリオには両方ともミュウが出てくるが、90年代後半の『新世紀エヴァンゲリオン』とゼロ年代の『天元突破グレンラガンぐらいの作風の開きがあると思う。ミュウツーの逆襲』の脚本家である首藤氏と『ルカリオの脚本家である園田氏の資質の違いについては、別の機会に詳説するつもりである。
 

悪役の不在について

 

Wikipediaで『ミュウと波導の勇者ルカリオの記事を読んでみた。Wikipediaの記事によると、『ルカリオ』は「シリーズ内では珍しく、サトシ達と明確に対立する存在(悪役)が登場しない作品」だという。ルカリオに悪役が登場しないのはその通りだと思うが、悪役が登場しないのはポケモン映画史上では別に「珍しい」ことではないと思う。

例えばポケモン映画第7作『裂空の訪問者』や第10作『ディアルガVSパルキアVSダークライでは人間の善悪を超越した怪獣バトルが描かれており、悪役が登場しない。第3作『結晶塔の帝王』に登場するエンテイはサトシ達と明確に対立する存在だが悪意は無いので、悪役だとは言いにくいと思う。また、ロケット団のムサシ・コジロウ・ニャースは劇場版ではチョイ役になることが多く、悪役として活躍しづらい。悪役が登場しないことを「珍しい」と評したWikipediaの執筆者は、ポケモン映画をあまり観ていないのではないかと思う。
 
『裂空の訪問者』や『ディアルガVSパルキアVSダークライを観ていると、「悪役が登場しなくても怪獣映画は成立する」ことがよくわかる。『ルカリオ』を観ていると、「悪役が登場しなくても冒険映画は成立する」ことがよくわかる。そして、ポケモン映画は「悪役が登場しなくても作劇が成立する」シリーズなのである。

【ヲタクの殴り書き】僕の考えた「テン年代批評」。

最近、Twitterで興味深いツイートを見付けたので引用する。

 

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ゼロ年代の想像力で新たなパラダイムを提示した宇野氏がその後10年代のアニメの話よりも宮崎・富野・押井のを扱う作家論(『母性のディストピア』)に向かったことが象徴的だが、僕らは2010年代のサブカルについて、かつての「セカイ系や「決断主義」のようなワードをついに共有できなかったよな。
 
念のため、解説しよう。自意識過剰なサブカル作品群が「セカイ系」と呼ばれることがあり、『新世紀エヴァンゲリオンは「セカイ系」の代表作だと考えられている。セカイ系という言葉の定義は曖昧だが、90年代後半以降の「エヴァっぽい」作品群がとりあえず「セカイ系だというイメージが私にはある。続いて「決断主義とは根拠が無くても何らかの立場を選択しなければならないという考え方のことで、『DEATH NOTE』は「決断主義」の代表作だと考えられている。批評家・宇野常寛によれば、「決断主義ゼロ年代を象徴する考え方だという。
 
1990年代後半には「セカイ系」、2000年代には「決断主義」がキーワードとして登場した。では、去年で終わった2010年代のサブカルを象徴する「ナントカ系」や「ナントカ主義」はあるのだろうか。冒頭で引用したツイートによれば、2010年代のサブカルを象徴するキーワードを私たちは共有することができないでいる。2010年代のサブカルを統括するワードは存在するのか/しないのか。もし存在しないのならば、なぜ存在しないのか。
 

全体像が機能しない

 

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テン年代の序盤である2011年に、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』が刊行された。宇野はこの本で、今の世界には〈外部〉が存在しないと語っている。現代では、貨幣と情報のネットワークが世界を一つに繋げた。そのため、現代は〈ここではない、どこか=外部〉が消失した時代だと宇野は考えている。冷戦が終わり、グローバル化が進んだ現代では、世界の〈内部〉と〈外部〉の区別が無くなり、世界の〈内部〉がただ広がっているだけなのだ。
 
幻冬舎文庫の『リトル・ピープルの時代』では、作家の川上弘美が巻末解説を書いている。川上は、宇野の現代社会論に深い共感を示している。
 
(中略)なんといおうか、いくつかの並列するものがあり、それらが交わらないまま、いつの間にか何かがなくなり、何かが知らずに生まれていた、という印象があるのだ。俯瞰、ということができなくなったという言い方もできるかもしれない。
 その「つまずくところ」がすなわち、「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変換期だったのだ、と考えると、俯瞰しづらかったことも納得できる。つまり、全体像、という言葉が機能しなくなったことそれ自体が、答だったのだ。
 
グローバル化によって世界の〈外部〉が消失したということはつまり、世界の〈外部〉に出て世界の〈内部〉を見下ろす発想が困難になったことを意味している。グローバル化が進んだ世界を生きる私たちには、「世界を俯瞰する」ことや「世界の全体像を把握する」ことが不可能に近い。輪郭を持たない世界が果てしなく広がっている状況下に置かれた私たちにとって、現代社会を「統括する」ワードを探し出すのは非常に難しいはずだ。
 

なぜ全体像は存在しないのか

 

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テン年代の後半である2018年に、マルクスガブリエルによる哲学書『なぜ世界は存在しないのか』の邦訳が刊行された。この本でガブリエルは、存在するあらゆる事象を包摂する場である「世界」の存在を否定した。全てを包摂する領域…というか存在者の全体を、ガブリエルは否定しているわけだ。
 
ガブリエルの「世界は存在しない」説の論証は、言葉遊びのようだとよく皮肉られる。しかしガブリエルの「世界は存在しない」説は、グローバル化によって全体像が機能しなくなった現代の風潮と親和性が高いように感じられる。ガブリエルの哲学には、現代思想らしいアクチュアリティー(現実性)があると思う。
 

「歴史を統括すること」の放棄

 

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(C)2019劇場版「ジオウ・リュウソウジャー」製作委員会
テン年代と平成の最後の年である2019年に、映画『仮面ライダージオウOver Quartzer』が公開された。この映画では、「歴史の管理者」を名乗る組織・クォーツァーと平成仮面ライダーの戦いが描かれる。平成仮面ライダーは作品ごとの設定や世界観があまりにもバラバラなので、クォーツァーは平成仮面ライダーの歴史をスッキリとまとめようとする。
 
クォーツァーのメンバーの一人・ウォズは、平成仮面ライダーの歴史の統括を進めるクォーツァー側の方針に賛同していた。しかし、主人公・ソウゴに服従することを選択したウォズは、平成仮面ライダーの歴史を統括することを放棄するようになる。この映画では、平成仮面ライダーの歴史を統括することの不可能性が描かれている
 

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(C)2019劇場版「ジオウ・リュウソウジャー」製作委員会
ウォズ「祝え!一冊の本などにはまとめられないほどに、平成ライダーの歴史は豊潤だ!
 
この映画では世界全体や社会全体よりもミクロな集合だと考えられがちな、平成仮面ライダーというコンテンツの全体像も把握できなくなったことが表現されている。そして、「コンテンツ全体の輪郭が存在しない」というよりは「コンテンツが多様化しすぎている」ことを理由に挙げ、コンテンツを集約することが放棄されているのである。
 
 
…結論を述べよう。私は、2010年代のサブカルを統括するワードは「存在しない」と考えている。いや、より正確に言えば、テン年代サブカルを統括するワードを人間が把握するのは無理だと言うべきか。なぜなら、テン年代はそもそも「統括する」という営みが絶望的に困難な時代だと思うからだ。
 
宇野やガブリエルの説には、グローバル化によって全体像が機能しなくなった世相がよく表れていると思う。そして彼らの説を考慮すると、テン年代の世相を統括するのは非常に難しく思えてくる。そして『仮面ライダージオウOver Quartzer』は、サブカルコンテンツの全体を統括することの不可能性を表現している。平成仮面ライダーや特撮に限らず、アニメやゲームなどのコンテンツも多様化しているだろう。したがって、テン年代の各種サブカルを統括するのも、これはこれで非常に難しいはずだ。
 
テン年代サブカルを統括するためにはテン年代の世相や代表作への目配せが必要だと思うが、その目配せを行き届かせるのは困難だろう。だから、テン年代サブカルを統括するワードを私たちが共有するのは不可能だというのが、現時点の私の結論である。
 
〈参考文献〉
前島賢セカイ系とは何か』、星海社文庫、2014
宇野常寛ゼロ年代の想像力』、ハヤカワ文庫、2011
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎文庫、2015
マルクス・ガブリエル(清水一浩訳)『なぜ世界は存在しないのか』、講談社選書メチエ、2018