かるあ学習帳

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【ヲタクの殴り書き】僕の考えた「テン年代批評」。

最近、Twitterで興味深いツイートを見付けたので引用する。

 

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ゼロ年代の想像力で新たなパラダイムを提示した宇野氏がその後10年代のアニメの話よりも宮崎・富野・押井のを扱う作家論(『母性のディストピア』)に向かったことが象徴的だが、僕らは2010年代のサブカルについて、かつての「セカイ系や「決断主義」のようなワードをついに共有できなかったよな。
 
念のため、解説しよう。自意識過剰なサブカル作品群が「セカイ系」と呼ばれることがあり、『新世紀エヴァンゲリオンは「セカイ系」の代表作だと考えられている。セカイ系という言葉の定義は曖昧だが、90年代後半以降の「エヴァっぽい」作品群がとりあえず「セカイ系だというイメージが私にはある。続いて「決断主義とは根拠が無くても何らかの立場を選択しなければならないという考え方のことで、『DEATH NOTE』は「決断主義」の代表作だと考えられている。批評家・宇野常寛によれば、「決断主義ゼロ年代を象徴する考え方だという。
 
1990年代後半には「セカイ系」、2000年代には「決断主義」がキーワードとして登場した。では、去年で終わった2010年代のサブカルを象徴する「ナントカ系」や「ナントカ主義」はあるのだろうか。冒頭で引用したツイートによれば、2010年代のサブカルを象徴するキーワードを私たちは共有することができないでいる。2010年代のサブカルを統括するワードは存在するのか/しないのか。もし存在しないのならば、なぜ存在しないのか。
 

全体像が機能しない

 

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テン年代の序盤である2011年に、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』が刊行された。宇野はこの本で、今の世界には〈外部〉が存在しないと語っている。現代では、貨幣と情報のネットワークが世界を一つに繋げた。そのため、現代は〈ここではない、どこか=外部〉が消失した時代だと宇野は考えている。冷戦が終わり、グローバル化が進んだ現代では、世界の〈内部〉と〈外部〉の区別が無くなり、世界の〈内部〉がただ広がっているだけなのだ。
 
幻冬舎文庫の『リトル・ピープルの時代』では、作家の川上弘美が巻末解説を書いている。川上は、宇野の現代社会論に深い共感を示している。
 
(中略)なんといおうか、いくつかの並列するものがあり、それらが交わらないまま、いつの間にか何かがなくなり、何かが知らずに生まれていた、という印象があるのだ。俯瞰、ということができなくなったという言い方もできるかもしれない。
 その「つまずくところ」がすなわち、「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変換期だったのだ、と考えると、俯瞰しづらかったことも納得できる。つまり、全体像、という言葉が機能しなくなったことそれ自体が、答だったのだ。
 
グローバル化によって世界の〈外部〉が消失したということはつまり、世界の〈外部〉に出て世界の〈内部〉を見下ろす発想が困難になったことを意味している。グローバル化が進んだ世界を生きる私たちには、「世界を俯瞰する」ことや「世界の全体像を把握する」ことが不可能に近い。輪郭を持たない世界が果てしなく広がっている状況下に置かれた私たちにとって、現代社会を「統括する」ワードを探し出すのは非常に難しいはずだ。
 

なぜ全体像は存在しないのか

 

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テン年代の後半である2018年に、マルクスガブリエルによる哲学書『なぜ世界は存在しないのか』の邦訳が刊行された。この本でガブリエルは、存在するあらゆる事象を包摂する場である「世界」の存在を否定した。全てを包摂する領域…というか存在者の全体を、ガブリエルは否定しているわけだ。
 
ガブリエルの「世界は存在しない」説の論証は、言葉遊びのようだとよく皮肉られる。しかしガブリエルの「世界は存在しない」説は、グローバル化によって全体像が機能しなくなった現代の風潮と親和性が高いように感じられる。ガブリエルの哲学には、現代思想らしいアクチュアリティー(現実性)があると思う。
 

「歴史を統括すること」の放棄

 

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(C)2019劇場版「ジオウ・リュウソウジャー」製作委員会
テン年代と平成の最後の年である2019年に、映画『仮面ライダージオウOver Quartzer』が公開された。この映画では、「歴史の管理者」を名乗る組織・クォーツァーと平成仮面ライダーの戦いが描かれる。平成仮面ライダーは作品ごとの設定や世界観があまりにもバラバラなので、クォーツァーは平成仮面ライダーの歴史をスッキリとまとめようとする。
 
クォーツァーのメンバーの一人・ウォズは、平成仮面ライダーの歴史の統括を進めるクォーツァー側の方針に賛同していた。しかし、主人公・ソウゴに服従することを選択したウォズは、平成仮面ライダーの歴史を統括することを放棄するようになる。この映画では、平成仮面ライダーの歴史を統括することの不可能性が描かれている
 

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(C)2019劇場版「ジオウ・リュウソウジャー」製作委員会
ウォズ「祝え!一冊の本などにはまとめられないほどに、平成ライダーの歴史は豊潤だ!
 
この映画では世界全体や社会全体よりもミクロな集合だと考えられがちな、平成仮面ライダーというコンテンツの全体像も把握できなくなったことが表現されている。そして、「コンテンツ全体の輪郭が存在しない」というよりは「コンテンツが多様化しすぎている」ことを理由に挙げ、コンテンツを集約することが放棄されているのである。
 
 
…結論を述べよう。私は、2010年代のサブカルを統括するワードは「存在しない」と考えている。いや、より正確に言えば、テン年代サブカルを統括するワードを人間が把握するのは無理だと言うべきか。なぜなら、テン年代はそもそも「統括する」という営みが絶望的に困難な時代だと思うからだ。
 
宇野やガブリエルの説には、グローバル化によって全体像が機能しなくなった世相がよく表れていると思う。そして彼らの説を考慮すると、テン年代の世相を統括するのは非常に難しく思えてくる。そして『仮面ライダージオウOver Quartzer』は、サブカルコンテンツの全体を統括することの不可能性を表現している。平成仮面ライダーや特撮に限らず、アニメやゲームなどのコンテンツも多様化しているだろう。したがって、テン年代の各種サブカルを統括するのも、これはこれで非常に難しいはずだ。
 
テン年代サブカルを統括するためにはテン年代の世相や代表作への目配せが必要だと思うが、その目配せを行き届かせるのは困難だろう。だから、テン年代サブカルを統括するワードを私たちが共有するのは不可能だというのが、現時点の私の結論である。
 
〈参考文献〉
前島賢セカイ系とは何か』、星海社文庫、2014
宇野常寛ゼロ年代の想像力』、ハヤカワ文庫、2011
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎文庫、2015
マルクス・ガブリエル(清水一浩訳)『なぜ世界は存在しないのか』、講談社選書メチエ、2018