かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『埴谷雄高』と『終ノ空』~「白昼の人」と「夜の人」~

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2016年1月8日初版発行
 

哲学者が立ち止まる所で、文学者は進む

 
哲学者の鶴見俊輔は、『埴谷雄高』という本を書いている。鶴見はこの本で埴谷雄高について考察し、埴谷と対談している。埴谷雄高(はにや・ゆたか)という作家は日本共産党に入党し、不敬罪および治安維持法違反によって豊多摩刑務所に送られた経歴を持つ。埴谷は刑務所の独房で哲学書を読み、特にカントの『純粋理性批判』に感銘を受けたという。埴谷雄高』では、『純粋理性批判第一版の序文が引用されていた。
 

f:id:amaikahlua:20210304114650p:plainカント(1724~1804)

人間の理性はその認識の一種類に於て特殊な運命をもつているー性は斥けんと欲して斥けることができず、さればといつて、それを解答することも出来ぬ問題によつて悩まされるという運命をもつているのである。斥けることが出来ぬというのは問題が理性そのものの本性によつて理性に課せられたものであるからで、解答できぬというのは、それが人間の理性のあらゆる能力を超えているからである」(p.40)。
 
人間の理性は、理性によって解くことのできない形而上学的問題を次々と作り出すとカントは考えた。形而上学的問題は作ることができ・考えることができるが、解くことはできない。形而上学的問題は科学によって解答不可能である。解答不可能な問題に取り組む事は時間の無駄であり、解答不可能な問題は排除するのが明晰な態度である……ように思える。しかし埴谷は、形而上学的問題にどんどんのめりこんでいった。なぜなら、解答不可能な問題を作る所に人間の創造性があり、自我の自由があるからだ。創造と自由を探求するために、埴谷は形而上学的問題に取り組んだ。
 

f:id:amaikahlua:20210304115015p:plain鶴見俊輔(1922~2015)

 なぜ、こういう無駄な作業を生涯の主な事業としてえらぶか。それは、スティルネリアンである埴谷にとって生きることの根本的な衝動が自我の自由な活動を極限までおしすすめてみることだったからであり、このような自我の自由な活動をゆるす領域が形而上学あるいは哲学)だからである。しかも、すでにカントが『純粋理性批判』の中で理解したように、これらの形而上学的問題はつくることができ、考えることができるが、解くことはできない。それらについて科学的な解答を求める道は、袋小路である。この故に、埴谷は、これらの「偽問題」を次々につくり、それらと格闘するドラマをかく様式として、創作(あるいは文学)をえらんだ。(p.42)
 
「科学や経済学とかの存在意義はわかるけど、文学の存在意義がよくわからない」と思っている人は多そうだ。だから、「文学は無意味。大学に文学部は不要だ」という破壊的な説が生まれてくる。しかし『埴谷雄高』を読めば、文学の存在意義がよくわかる。科学が扱わない、科学にはお手上げな形而上学的問題を、文学は引き受けることができる。科学が扱わない問題を文学は引き受け、形而上学的問題と格闘することができる。だから文学にはちゃんとした役割があり、存在意義がある。
 

f:id:amaikahlua:20210304115349p:plain埴谷雄高(1909~1997)

埴谷:だから、どちらかといえば、白昼の人は論理派でいわゆる哲学者なんですね。ところが、夜の人は夢の世界と闇の世界で、文学者なんですよ。
鶴見:なるほど。
埴谷:ドストエフスキーも言っています。極端まで自分は行く、と。つまり、果てがないんです。何をやってもこれで終わりということがない。その次その次がある。パスカルの言う、根源と究極は見ることも達することもできない、ということをあえて引き受けて究極まで行こうとする無謀なものは文学者なんですね。しかし、文学が実際にそれをやれるかどうかわからない。
 ところが、ぼくは宇宙論という闇の領域へ入ってしまったのですね。カントの仮象の論理学では、宇宙論の二律背反で、どうとでも言えるのですね。初めがあるとも言えるし、ないとも言える。ぼくはこれでしめたと思ったですね。
 哲学者はそこで止まらなくては誤る。だが文学者はそこから出発する。(pp.97-98)
 
また、埴谷が鶴見に打ち明けた説によると、哲学者はどちらかと言うと「白昼の人」であり論理派である。哲学者は、理性の限界で立ち止まらないと間違える恐れがある。一方、文学者は「夜の人」であり、理性の限界を超えてどこまでも先に進もうとする。これは非常に魅力的であり面白い説ではないだろうか。
 
哲学者は「白昼の人」である一方、文学者は「夜の人」であるという。埴谷の説は魅力的だが、本当にそうだろうか?と私は思う。例えばハイデガーは『芸術作品の根源』で芸術作品によって示される「闇(大地)」の存在に自覚的だったと思うし、ニーチェは『ツァラトゥストラで「世界は深い、昼が考えたより深い」と語っている。ハイデガーニーチェは、哲学者でありながら「闇」や「夜」にかなり身を浸しているように思える。それだけハイデガーニーチェには文学的な資質があると言う事だろうか?ともかく、埴谷の説は魅力的な説ではある。
 

つれだつ友なる「白昼の人」と「夜の人」

 
昨年リメイクされて話題になった『終ノ空というエロゲーがある。終ノ空』のシナリオを書いたSCA-自氏は、埴谷雄高の言説を批判的に読み込んでいたらしい。
 

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SCA-自:そうそう、テレビの特集なのに埴谷雄高氏が言ってた事に対する反応は1999年版『終ノ空』でめちゃくちゃ出てくる。良く分からんけど批判的に読み込んでた。テレビ録画だけど。
 
確かに1999年版『終ノ空』をプレイすると、SCA-自氏が埴谷の言説を取り入れた形跡が確認できる。終ノ空では水上行人と間宮卓司の対立が物語の大きな軸になっているのだが、これはおそらく埴谷の影響だろうと推測できる。水上行人はカントの『純粋理性批判』を読んでいて、理性の限界で立ち止まった。一方、間宮卓司は理性の限界で立ち止まらず、新しい形而上学を誕生させようとした。
 

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彩名「ゆきとくんは卓司くんとまったく違う生き方をしている」
彩名「でもそれは、まったく違っていながら」
彩名「裏、表の逆でしかない」
彩名「それは、立ち止まる者と立ち止まらない者
彩名「見つめる者と食らう者
 

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埴谷の言葉を借りれば、行人は哲学者であり「白昼の人」、卓司は文学者であり「夜の人」だと言えるだろう。SCA-自氏は、このカテゴリー区分にかなり意識的に従って『終ノ空を執筆したのではないだろうか。行人は青空が見える学校の屋上によく行ったし、『終ノ空のラストで日中の校舎に転移している。一方、卓司は地下や暗闇を好み、夜の学校での場面が印象的な人物である。これらの事実は、行人が「哲学者=白昼の人」であり卓司が「文学者=夜の人」であることを暗示しているのではないだろうか。
 

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では、これまでの考察を整理しよう。埴谷は、哲学者は「白昼の人」であり理性の限界で立ち止まる者だとみなした。一方、文学者は「夜の人」であり理性の限界の先に進む者だとみなした。埴谷の区分では、行人は哲学者であり、卓司は文学者に当たる。埴谷は明確に対立する二つの区分のうち、文学者の側に付いた。埴谷は文学者として、卓司のように果ての見えない暗闇をどこまでも進もうとした。
 
終ノ空では行人の視点からも卓司の視点からも物語が語られているものの物語の主人公はどちらかと言うと卓司ではなく行人の方であろう。SCA-自氏は立ち止まる者・行人に味方したシナリオを書いている。SCA-自氏は、哲学者・「白昼の人」・立ち止まる者の側に付いたのだ。したがってSCA-自氏の立場は、文学者・「夜の人」・立ち止まらない者である埴谷と明確に対立している。これがSCA-自氏が埴谷に対して「批判的」であるということなのだろう。
 
もっとも、SCA-自氏も埴谷もカントの『純粋理性批判に触発され、「白昼の人」と「夜の人」の対立について思考したという点で共通している。SCA-自氏と埴谷は行人と卓司のように対立していながら根元的には表裏一体、「つれだつ友」なのだといえよう。

ショーペンハウアー批判~緩やかな欲望と共に生きろ~

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『意志と表象としての世界III』

2004年10月10日初版発行
 
ショーペンハウアーとかいう哲学者の主著『意志と表象としての世界』を読み終わった。ショーペンハウアーは仏教から影響を受けた哲学者で、意欲(欲望)をネガティブに解釈する傾向がある。私が読んだ限り、『意志と表象としての世界』の中で一番問題があるのは、第六十五節ではないかと思う。慧眼な読者ならばさらに問題点を見抜けるかもしれないが、『意志と表象としての世界』第六十五節の内容には明らかに問題があると言ってよいだろう。
 
「最高善summum bonumというのも絶対善と同じことを意味している。それはつまり、もう新しい意欲がこれ以上は起こらないという意志の最終的満足のことであって、そこに達してしまえば意志の充足が二度と壊されないという究極的動機のことである。(中略)意志にとっては、自分の努力が完全かつ永久に満足される、永続的な充足というものは存在しない。意志はダナオスの娘たちの底なしの笊(ざる)である」(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第六十五節より)
 

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ざるに水を注いでもきりがないように、私たちの欲望もきりがない
ギリシア神話に登場するダナオス王の娘たちは、冥界で底に穴の開いた笊(ざる)に水を満たすという終わりのない苦役を課せられていると言われている。いくら笊に水を注いでも、笊の中は水でいっぱいにならない。それと同じように、いくら意志を満たそうとしても、私たちは最終的な満足にたどり着けない。笊に水を注いでもきりがないのと同様に、私たちの欲望もきりがないのである。
 
私たちの意欲は果てしないものであり、意志が完全に満足することは無いというショーペンハウアーの説はおそらく正しい。しかし、意志をある水準まで満足させることにより、意欲の勢いを緩やかにすることができるのではないか?と私は思う。そして、「意志をある水準まで満足させることにより、意欲の勢いを緩やかにする」ということについて、ショーペンハウアーは全く考察していない。ここが『意志と表象としての世界』の盲点ではないだろうか。
 
この世には、100万円が手に入ったら1000万円が欲しくなり、1000万円が手に入ったら1億円が欲しくなるような、欲深い人間が存在する。そういう人は、資本主義などの影響で、今の世の中に少なからず存在するだろう。しかし、この世にいるのはそうした意欲の勢いが底無しに激しい人ばかりではないだろうと推測できる。
 
この世には、1000万円を手に入れた時点で意志がかなり満足し、それ以降はあまり多くを求めずに裕福な気持ちで暮らせる人が存在すると思う。私個人の人生観としては、「最高善=意志の最終的満足」を達成するのが不可能ならば、意志をある水準まで満足させることにより、意欲の勢いを緩やかにし、あとは悠々自適に暮らせば良いと思っている。私はこう考えているので、この持論に従って生きている。しかしショーペンハウアーは「最高善の不可能」から「意志の滅却」を持ち出しているので、発想が極端である。
 

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「意志にとっては最高善も、絶対善も存在しない。存在するのはつねに暫定的な善だけである。しかしもし、古くから使われてきたこの表現を習慣上まるきり捨ててしまいたくないので、いわば「退職者」emeritusとしてこれに名誉職を与えておく方が好ましいというのなら、比喩的ならびに象徴的に、意志の全面的な自己廃棄と否定、真の無意志の状態を、絶対善、最高善とよんだらよいであろう」(ショーペンハウアー意志と表象としての世界』第六十五節より)
 
この発想は、最高善の基準を「意志が完全に100%満足した状態」から「意志が全く無い状態、いわば0%」に引き下げる極端な発想であろう。意志の水準をここまで大幅に下げなくても、意志をほどほどに満足させてあとは緩やかな意欲と共に生きれば良いのではないか?と私は思うのである。
 

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意志にとっては、自分の努力が完全かつ永久に満足される、永続的な充足というものは存在しない」(ショーペンハウアー意志と表象としての世界』第六十五節より)
 
ショーペンハウアーの功績は、意志が完全に100%満足した状態になるのは不可能だと主張したことだと思う。
 

f:id:amaikahlua:20210225190359p:plainニーチェ(1844~1900)

人間意志は一つの目標を必要とする、そしてそれは欲しないよりは、まだしも無を欲する」(ニーチェ道徳の系譜』第三論文より)
 
ニーチェの功績は、意志が完全に無になり0%の状態になるのは不可能だと主張したことだと思う。
 
人間の意志を完全に満足させるのも無にするのも不可能ならば、意志を1%から99%のところで上手くなだめる必要があると思う。私の人生観としては、ほどほどの水準で意志を満足させ、あとは意欲を緩やかにして悠々と暮らすのが賢明ではないだろうかと思う。そしておそらく、それほど欲深くない一般大多数の人々は、衣食住への欲求などをそこそこ満足させ、適当な意欲を持ちながら何となく生きているのではないかと思う。
 
意欲が適度だということは悪い意味で適当、悪い意味でいい加減であることに結び付きやすい。堕落することなく、緩やかな欲望と共に生きていたいものである。私よりも激しい人生を希望する人間は存在すると思うけれど、とりあえず私は緩やかな欲望と共に生きたい。

『逆転裁判6』レビュー~論理をあきらめるな~

逆転裁判6』をプレイし終わった。逆転裁判6』の最終話(第5話)は最高だった。久し振りに物語を読んで心底面白いと思った。こんなに面白いシナリオ、凡人には書けねえよと思った。「『逆転裁判6』は凡作」という意見をネットで見ましたが、そんなわけないと思った(笑)。逆転裁判6』に感銘を受けたので、今回は『逆転裁判6』について語ります。

 

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2016年6月9日発売
おすすめ度:★★★★☆(オカルト要素は人を選びますが、最終話が神)
 

人を選ぶ世界観とオカルト要素

 

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逆転裁判6』では、成歩堂弁護士が「クライン王国」という架空の国を訪れます。クライン王国には「弁護罪」という法律があり、この法律のせいで弁護士不在の裁判が行われていました。しかし成歩堂弁護士は異国で命がけの弁護を行う事を決意し、悪法に支配された国家を次第に変えていく……というストーリーです。
 
最初に言っておきますが、『逆転裁判6』のシナリオは、かなり「人を選ぶ」と思います。まず、法廷に弁護士が存在しない架空の国という物語の舞台がぶっ飛んでいて、度肝を抜かれる人が多いだろうと思います。前作『逆転裁判5は科学が発達した近未来的な世界観が持ち味でしたが、今作ではえらい変わりようでした。科学じゃなくて宗教が発達した国家が舞台になってる。
 

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逆転裁判6』はオカルト要素が滅茶苦茶に多くて、現実主義な読者はついていけないのではなかろうかと思う。殺された被害者の記憶を再生する儀式を法廷で行ったり、霊媒を巧妙に利用した犯行が行われたりして、現実では起こり得ない超常現象に満ちた作品でした。ミステリにリアリティを求める読者がプレイしたら、「ふざけるな!」と最悪怒り出すかもしれません。リアリストにこの作品は勧められないなー。
 

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逆転裁判6』では霊媒ビジョン」と言いまして、事件の被害者が死ぬ直前に五感で感じた情報を水面に映す儀式が行われます。水面に映し出された光景を資料にして事件を推理していくのですがこれがクッソ難しいんだわwww水面に映っている光景がぼやけていて見づらいし、五感で感じた錯綜する情報と巫女の託宣の矛盾を考えるのもしんどい。なにぶん情報量が多くてね。私には「霊媒ビジョン」は難しすぎて、好きになれなかったな。何度もゲームオーバーになった。
 

非現実的な設定から得られるもの

 
さて、『逆転裁判6の良くなかった点をだいぶ書いてしまいましたが、これからこのゲームを褒めようと思います(笑)。『逆転裁判6のぶっ飛んだ世界観や溢れ出るオカルト要素は、個人的に趣味じゃない。主観的な感情論で言うと『逆転裁判6は生理的にかなり抵抗がある作品だったけど、この非現実的な世界観や設定だからこそ得られるものは多かったと思う。
 

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逆転裁判6』のクライン王国の法廷は、「あきらめの法廷」と呼ばれています。法廷に弁護士が存在しない以上、被告人は減刑や無罪判決をあきらめなければなりません。そして、ライバルのナユタ検事は、弁護人に「あきらめなさい」としつこく勧告してきます。クライン王国では「あきらめ」が支配的なのですが、このあきらめムードは、腐敗した仏教や禁欲主義思想の悪い所をよく描いているなと思った。
 

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注:クライン王国ではなく日本が舞台のお話もあります

仏教思想やショーペンハウアーの哲学とかでは「あきらめ」が肝心だけど、クライン人は物事を悪い意味であきらめている。成歩堂弁護士たちはクライン人のあきらめに抵抗し、無罪判決を勝ち取ることを最後まであきらめません。世界があきらめムードに支配されているからこそ、あきらめない信念が一層強く光り輝く。あきらめに満ちた世界観が、「判決を最後まであきらめない」という逆転裁判シリーズのテーマを際立たせる良いスパイスになっていると思いました。

 
また、世界観や設定が非現実的でも、論理的思考や真実の提示による説得が普通に通用する所も良かった成歩堂弁護士たちは逆転裁判らしい柔軟な推理や証拠品による説得をクライン王国でも行うのですが、こうしたロジカルな説得はクライン王国の人々の心を変えていく。推論や根拠のような論理の力や、事件のたった一つの真実(『論理哲学論考』でいう「事実」)は、イカれた国の慣習をも変革する。逆転裁判6』では「理にかなっていることの強さ」が、設定が非現実的なぶんだけ鮮やかに表現されていると思いました。
 

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感情論で言うと「霊媒ビジョン」を私は好きになれなかったのですが、霊媒ビジョン」の必要性や意義はちゃんと認めていますよ。霊媒ビジョン」は、あやふやな証拠を叩き台にしてみんなで議論することの大切さを実感させるシステムだったと思います。また、逆転裁判シリーズに対して「霊媒を利用して犯人を特定すればいいじゃん」というツッコミが昔から来ていましたが、そのツッコミへの応答として、「霊媒ビジョン」は、やるだけの価値はあったんじゃないかなと思います。
 
逆転裁判6』を好意的に解釈すると、弁護士が不必要とみなされる国家を描いたディストピア物語」として良くできていたんじゃないかと。
 

異色作にして集大成

 

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逆転裁判6』の最終話は、本当に凄かった。オドロキ君の過去が掘り下げられ、ナユタ検事の魂が救済され、クライン王国に大革命が起こる盛りだくさんの伏線回収劇。多くのメインキャラクターに活躍の場が与えられ、良い意味で読み手の期待を裏切りまくる展開の連続に感動が止まらなかった。相変わらずオカルト色の強い話だったけど、異能バトルと法廷バトルが融合したような熱い裁判だったぞw
 
多くのユーザーが指摘していることですが、逆転裁判6の最終話は「オドロキ君の物語」です。オドロキ君は成歩堂の部下であり、成歩堂と比べて「主人公力」がいまいち劣るので、一部のファンからは「劣化成歩堂と揶揄されているキャラだった。そのオドロキ君が、最終話でとんでもない大活躍をします。
 

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最終話の前半でオドロキ君は成歩堂に「勝利」し、成歩堂を「救済」するのですが、この場面を読んだ私は「あー、山﨑Dも巧舟に『勝利』し、巧舟を『救済』したな」と思いました。山﨑剛さんが統括した『逆転裁判6の最終話は、巧舟さんが執筆した『逆転裁判1~3』の最終話に匹敵するくらい面白かった。話のスケールも壮大で、ある点では巧舟さんを超えていると思った。オドロキ君がこれだけ成長したんだから、悪評さくさくたる『逆転裁判4』も救われたんじゃないかな。という訳で、成長した成歩堂の部下・オドロキ君」と「健闘した巧舟の後続・山﨑D」がダブって見えました。
 
逆転裁判6』は異国が舞台の異色作ですが、これまでの逆転裁判シリーズの集大成のような出来でした。異色作にして集大成」という点で、『逆転裁判6』は『ポケットモンスターウルトラサン/ウルトラムーン』のようなポジションのソフトだなと思いました。ポケモンUSUMはアローラ地方という南国風の地が舞台で、ウルトラビーストみたいに変なポケモンも出てくるけど、従来のポケモンシリーズの集大成のような出来だった。『逆転裁判6』もそれに近い感じで、「異色作にして集大成」だと思った。オカルト裁判に抵抗が無い人は、ぜひプレイしてみて下さい。龍は屈せず!