『意志と表象としての世界III』
西尾幹二訳
中公クラシックス
2004年10月10日初版発行
ショーペンハウアーとかいう哲学者の主著『 意志と表象としての世界』を読み終わった。 ショーペンハウアーは仏教から影響を受けた哲学者で、意欲( 欲望)をネガティブに解釈する傾向がある。私が読んだ限り、『 意志と表象としての世界』の中で一番問題があるのは、 第六十五節ではないかと思う。 慧眼な読者ならばさらに問題点を見抜けるかもしれないが、『 意志と表象としての世界』 第六十五節の内容には明らかに問題があると言ってよいだろう。
ショーペンハウアー(1788~1860)
「最高善summum bonumというのも絶対善と同じことを意味している。 それはつまり、 もう新しい意欲がこれ以上は起こらないという意志の最終的満足の ことであって、 そこに達してしまえば意志の充足が二度と壊されないという究極的 動機のことである。(中略)意志にとっては、 自分の努力が完全かつ永久に満足される、 永続的な充足というものは存在しない。 意志はダナオスの娘たちの底なしの笊(ざる)である」( ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第六十五節より)
ギリシア神話に登場するダナオス王の娘たちは、 冥界で底に穴の開いた笊(ざる) に水を満たすという終わりのない苦役を課せられていると言われて いる。いくら笊に水を注いでも、 笊の中は水でいっぱいにならない。それと同じように、 いくら意志を満たそうとしても、 私たちは最終的な満足にたどり着けない。 笊に水を注いでもきりがないのと同様に、 私たちの欲望もきりがないのである。
私たちの意欲は果てしないものであり、 意志が完全に満足することは無いというショーペンハウアーの説は おそらく正しい。しかし、 意志をある水準まで満足させることにより、 意欲の勢いを緩やかにすることができるのではないか? と私は思う。そして、「 意志をある水準まで満足させることにより、 意欲の勢いを緩やかにする」ということについて、 ショーペンハウアーは全く考察していない。ここが『 意志と表象としての世界』の盲点ではないだろうか。
この世には、 100万円が手に入ったら1000万円が欲しくなり、 1000万円が手に入ったら1億円が欲しくなるような、 欲深い人間が存在する。そういう人は、資本主義などの影響で、 今の世の中に少なからず存在するだろう。しかし、 この世にいるのはそうした意欲の勢いが底無しに激しい人ばかりで はないだろうと推測できる。
この世には、 1000万円を手に入れた時点で意志がかなり満足し、 それ以降はあまり多くを求めずに裕福な気持ちで暮らせる人が存在 すると思う。私個人の人生観としては、「最高善= 意志の最終的満足」を達成するのが不可能ならば、 意志をある水準まで満足させることにより、 意欲の勢いを緩やかにし、 あとは悠々自適に暮らせば良いと思っている。 私はこう考えているので、この持論に従って生きている。 しかしショーペンハウアーは「最高善の不可能」から「 意志の滅却」を持ち出しているので、発想が極端である。
「意志にとっては最高善も、絶対善も存在しない。 存在するのはつねに暫定的な善だけである。しかしもし、 古くから使われてきたこの表現を習慣上まるきり捨ててしまいたく ないので、いわば「退職者」 emeritusとしてこれに名誉職を与えておく方が好ましいと いうのなら、比喩的ならびに象徴的に、 意志の全面的な自己廃棄と否定、真の無意志の状態を、絶対善、 最高善とよんだらよいであろう」(ショーペンハウアー『 意志と表象としての世界』第六十五節より)
この発想は、最高善の基準を「意志が完全に100% 満足した状態」から「意志が全く無い状態、いわば0%」 に引き下げる極端な発想であろう。 意志の水準をここまで大幅に下げなくても、 意志をほどほどに満足させてあとは緩やかな意欲と共に生きれば良 いのではないか?と私は思うのである。
「意志にとっては、自分の努力が完全かつ永久に満足される、 永続的な充足というものは存在しない」(ショーペンハウアー『 意志と表象としての世界』第六十五節より)
ショーペンハウアーの功績は、意志が完全に100% 満足した状態になるのは不可能だと主張したことだと思う。
ニーチェ(1844~1900)
ニーチェの功績は、意志が完全に無になり0% の状態になるのは不可能だと主張したことだと思う。
人間の意志を完全に満足させるのも無にするのも不可能ならば、 意志を1%から99% のところで上手くなだめる必要があると思う。 私の人生観としては、ほどほどの水準で意志を満足させ、 あとは意欲を緩やかにして悠々と暮らすのが賢明ではないだろうか と思う。そしておそらく、 それほど欲深くない一般大多数の人々は、 衣食住への欲求などをそこそこ満足させ、 適当な意欲を持ちながら何となく生きているのではないかと思う。
意欲が適度だということは悪い意味で適当、 悪い意味でいい加減であることに結び付きやすい。 堕落することなく、緩やかな欲望と共に生きていたいものである。 私よりも激しい人生を希望する人間は存在すると思うけれど、 とりあえず私は緩やかな欲望と共に生きたい。