かるあ学習帳

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『結晶塔の帝王』考察~自己保存から現実に帰れ~

「自己犠牲」から「自己保存」へ

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ママ「サトシ!見てたわよ!なんて危ないことするの!」

カスミ「でも、サトシは、この世界を救ったんですよ?」
ママ「それがなんなの?あなたはまだ子供なんだから、無茶はダメ!世界を救う?命がけでする事?サトシがいなくなったら、サトシの世界はもうないの。私の息子はもういないの!あなたがいるから、世界はあるの!…サトシ、あなたはこの世界で何をしたかったの?
サトシ「俺は…ポケモンマスターに」
ママ「だったら、無理せずに、それを目指しなさい?
サトシ「だよね!」
 
ポケモン映画第2作『幻のポケモン ルギア爆誕』では、主人公・サトシが危険を冒して世界を救った。しかし、サトシの自己犠牲的な行為は、映画の結末でサトシのママによって批判される。サトシのママのお説教は、とりあえず一理あるだろう。自分の命を顧みない英雄的行為は、親や知り合いを不安にさせることがある。そして、自分の命を犠牲にすることにより、自分の夢を自分が果たせずに絶命する恐れもある。自己犠牲は美徳とされることが多いが、自己犠牲には他人にとっても自分にとってもデメリットがあるのである。
 
『ルギア爆誕』では、ママがサトシに自己保存(=自分の命を大切にすること)を勧めた。『ルギア爆誕の結末では親が子供を、自己保存が自己犠牲を説き伏せたのである。しかし、親の支配や自己保存にも、悪い面はもちろんある。ポケモン映画第3作『結晶塔の帝王』では、病的に悪化した親の支配や自己保存との戦いが描かれる。
 

「自己保存」の病巣

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『結晶塔の帝王』には、父親が行方不明になって孤独な生活を送るミーという少女が登場する。謎のポケモンアンノーンはミーの孤独に感応し、ミーの父親役としてエンテイを召喚する。エンテイはサトシのママに催眠術をかけ、ママをミーの館に誘拐する。こうしてミーは自分の館に引きこもったまま、偽りの〈父親〉と〈母親〉を手に入れたのである。エンテイはミーの過保護すぎる父親を演じ、ミーの願いを何でも叶えようとし、ミーを外敵の存在から守ろうとする。
 

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アンノーンは超能力によって、ミーの館を結晶塔に作り変えた。結晶塔を起点として、周囲の世界はどんどん結晶化していく。結晶化した世界は極度に排他的であり、外部からの侵入を受け付けない。ミーは、〈父親〉役であるエンテイと〈母親〉役であるサトシのママとずっと一緒にいることを望んだ。ミーは自閉する引きこもりであり、自己保存を体現している。そして結晶塔は、過保護すぎる親の支配と子供の夢が作り出した「自己保存の病巣」だと言っていい。
 

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こうして考察は困難な局面を迎える。自己犠牲は、ポケモン映画やキリスト教教義学で何度も繰り返される美徳である。しかし自己犠牲は親や知り合いを傷つけ、何より自分の目的を挫折させる恐れがある。その一方で自己保存をすれば自分は傷付かずに済むし、親に守られていれば安全だ。しかし親の支配が悪化すれば子供は自立しなくなり、自己保存が悪化すれば引きこもりになり、かえって外界との軋轢が生じる恐れがある。
 
自己犠牲の賞揚→自己犠牲の批判→自己保存の賞揚→自己保存の批判を辿ってきた首藤脚本ポケモン映画の終着駅とは、いったい何だったのだろうか。
 

「中間項」としての「現実に帰れ」

「自己保存」との戦いを描いた『結晶塔の帝王』が提示した解決策は、「現実に帰れ」というものだ。自己犠牲によって自分を滅ぼすのではなく、自己保存によって外に出ないのでもない。夢の世界から現実の世界に戻り、自分を滅ぼさずに他者と共に生きていく。「傷付け合ったり、仲間を増やしたりしながら、他者と関わって生きる」というのが、『結晶塔の帝王』が出した答えであった。タケシの言葉は優しい。
 

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サトシ「出ようぜ、外に」
カスミ「外に出るとケンカもすれば、
タケシ「仲間もできる。いっぱいね
 

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『結晶塔の帝王』よりも先に「現実に帰れ」という結論を出したことで有名なアニメは、ご存知の通りエヴァンゲリオン旧劇場版『Air/まごころを、君に』である。エヴァ旧劇場版では主人公・シンジがたとえ傷付いてもいいから現実に帰ることを選択し、アスカに「気持ち悪い」と言われて物語は終幕した。
 

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エヴァ旧劇場版は虚構から現実に帰らないヲタク達に「現実に帰れ」と言い放ち、当時のヲタク達に深刻なトラウマを植え付けたことで知られている宇野常寛によれば、アスカに「気持ち悪い」と拒絶されたヲタク達は90年代末~ゼロ年代初頭にかけて、かえって優しい虚構に逃げることになったという。こうして『最終兵器彼女』『ほしのこえ』『イリヤの空、UFOの夏といった、数々のヲタク受けしやすい「名作」が生まれることになった。*1つまりエヴァ旧劇場版は観客に「現実に帰れ」と言うメッセージを伝えるのには一応成功したのかもしれないが、そのメッセージが受容者に与えた影響はかえって逆効果だったと言えるだろう。
 
私の観察では、『結晶塔の帝王』は「現実に帰れ」という主題をエヴァ旧劇場版よりも上手に料理しているように思える。まず、『結晶塔の帝王』は、「現実に帰れ」という結論を出すための手続きが丁寧である。『ミュウツーの逆襲』『ルギア爆誕で描かれた自己犠牲の対立項である自己保存をテーマに描き、自己犠牲と自己保存の中庸を行く「中間項」として「現実に帰れ」というメッセージを自然に繋げている。そして、エヴァ旧劇場版は他人に拒絶される現実の辛さを描きすぎたきらいがあるが、『結晶塔の帝王』では引きこもりを他者たちが現実へと温かく迎え入れている。
 
タケシが言う通り、現実には敵だけでなく仲間もいっぱいいるはずだ。現実にはきっといい人やいいこともあるはずだという希望が、私たちを引きこもりたい誘惑から遠ざけている。私はそう思っている。
 
〈註〉
ポケモンエヴァンゲリオンの関係についてもっと考えたい人のために、関連記事を貼っておく。ちなみに拙者、シンエヴァはまだ観ていませんwと言うか、あえてシンエヴァを観ていない状態でこの記事を書いてみました。
(C)ピカチュウプロジェクト99
(C)ピカチュウプロジェクト2000
(C)GAINAX/EVA製作委員会

ポケモン映画と自己犠牲

「自己犠牲からの復活」という伝統

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劇場版ポケットモンスターでは、「自己犠牲からの復活」というモチーフが繰り返し現れる。ポケモン映画第1作『ミュウツーの逆襲』では、ポケモンとコピーポケモン同士の痛々しい戦いを、主人公・サトシが自分を犠牲にして休戦させる。サトシはミュウとミュウツーの念力を全身で受け止め、石になってしまう。サトシの自己犠牲はポケモンとコピーポケモンの心を動かし、涙ぐむポケモンたちの思いによって、サトシは奇跡の復活を遂げる。
 

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脚本家が首藤剛志から他の脚本家に交代しても、ポケモン映画では「自己犠牲からの復活」という遺伝子が受け継がれていく。園田英樹脚本の『水の都の護神』では、水の都に押し寄せる大津波ラティアスラティオスが阻止する。ラティオスは一旦消滅するのだが、キーアイテム「こころのしずく」に生まれ変わる。つまりラティオスは自己犠牲によって死亡し、こころのしずくという姿で「復活」したわけだ。米村正二脚本の『キミにきめた!』では、ポケモンたちの集中攻撃からピカチュウを庇ったサトシが一旦消滅するのだが、やはり復活する。
 

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近ごろ私が偏愛する「自己犠牲からの復活」は、『ディアルガvsパルキアvsダークライ』のラストである。ダークライは、伝説のポケモンディアルガパルキアの衝突を仲裁する。しかしディアルガパルキアの破壊力は凄まじく、ダークライは途中で消滅してしまう。サトシたちはダークライの死を悲しむが、実はダークライは生きていた!…というのが『ディアルガvsパルキアvsダークライ』のオチである。こうしてダークライも、「自己犠牲からの復活」を遂げたのである。
 

「死ぬことによって、かえって生を得る」という逆説

脚本家の首藤氏のコラムによると、ミュウツーの逆襲』で描かれた「自己犠牲からの復活」は、海外のキリスト教徒に称賛されたそうだ。イギリス国教会のアン・リチャーズ神学担当官は、『ミュウツーの逆襲』から「死と復活」というキリスト教的メッセージを読み取ったという。確かにキリスト教教義学でも、「死ぬことによって、かえって生を得る」という逆説が繰り返し現れる。*1その一例として、「ルカによる福音書」を引用しよう。
 

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 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(「ルカによる福音書」9.23-24)
 
ポケモン映画は「自己犠牲からの復活」を繰り返し、利他的な行為によってかえって自己の生命が救済されるという神学的な逆説を表現していると解釈できるだろう。自己中心的でありエゴイズムに走りがちな子供に見せる訓話としてポケモン映画の自己犠牲には教育的効果が期待できそうだ。
 

アンチテーゼ「自己保存」

自己犠牲は、ポケモン映画やキリスト教教義学で繰り返される重要テーゼであるポケモン映画第2作『幻のポケモン ルギア爆誕』でも、サトシが世界を救うために命がけで冒険する。サトシの命がけの冒険は、自分の命を危険に曝しているがゆえに、一種の自己犠牲だと言えるだろう。ということは、『ルギア爆誕もまた、自己犠牲を賞揚する映画だったのだろうか?いや、そうとは言いきれまい。なんと『ルギア爆誕』のラストでは、サトシのママがサトシに自分の命を大切にすること…すなわち「自己保存」を勧めるのだ!
 

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ママ「サトシ!見てたわよ!なんて危ないことするの!」
カスミ「でも、サトシは、この世界を救ったんですよ?」
ママ「それがなんなの?あなたはまだ子供なんだから、無茶はダメ!世界を救う?命がけでする事?サトシがいなくなったら、サトシの世界はもうないの。私の息子はもういないの!あなたがいるから、世界はあるの!…サトシ、あなたはこの世界で何をしたかったの?
サトシ「俺は…ポケモンマスターに」
ママ「だったら、無理せずに、それを目指しなさい?
サトシ「だよね!」
 
ミュウツーの逆襲』ではサトシの「自己犠牲からの復活」が描かれ、続く『ルギア爆誕でも相変わらずサトシの自己犠牲が賞揚されているかのように見えた。しかし『ルギア爆誕』のラストでは、これまでヒロイックに描かれたサトシの自己犠牲が批判されるのだ。サトシはママの子供であり、自己犠牲を体現する主人公である。一方、ママはサトシの親であり、主人公に自己保存というアンチテーゼを語る。『ルギア爆誕のラストで、サトシはママの言うことに素直に従った。『ルギア爆誕』の結末では親が子供に、自己保存が自己犠牲に勝利したわけだ。
 

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ポケモン映画第3作『結晶塔の帝王』では、前作『ルギア爆誕で勝利した親と自己保存が、サトシの敵対勢力になる。結晶塔の帝王』では、前作で自己保存を説いたサトシのママが催眠術をかけられ、敵側の結晶塔に拉致される。そして伝説のポケモンエンテイは、強大な父親役を演じる。こうして〈母親〉と〈父親〉…あるいは〈母性〉と〈父性〉が、サトシの敵地に回るのだ。さらに結晶塔には、ミーという引きこもりの少女が自閉している。自閉する引きこもりが自己保存を象徴していることは見やすいだろう。そう、『結晶塔の帝王』では、親によって擁立された自己保存というアンチテーゼとの戦いが描かれるのだ。
 
次回、我々は『結晶塔の帝王』の批評を通じて、ポケモン映画のアンチテーゼの深層を探らなければならない。「自己犠牲」というテーゼに対立する、「自己保存」という問題に。
(C)ピカチュウプロジェクト

*1:轟孝夫『ハイデガー存在と時間」入門』、講談社現代新書、二〇一七、二九四頁。

「親殺し物語」としての逆転裁判

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やべぇ、『逆転裁判123』と『逆転検事2』は「親殺し物語」だと解釈できることに気付いてしまった。まず最初に、「親殺し」という物騒な言葉の定義を与えなければなるまい。「親殺し」というのは、父親や母親を物理的に殺害することである。それに加えて、父親や母親の存在を心の中で乗り越えることも、私は「親殺し」と呼びたい。心の中で父親や母親から自立したり、離別したりすることも、本稿では「親殺し」と呼ぶことにしよう。
 
(!!!ここから先には『逆転裁判123』『逆転検事2の重大なネタバレが含まれています。閲覧は自己責任でお願いします!!!)