かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

ポケモン映画と自己犠牲

「自己犠牲からの復活」という伝統

f:id:amaikahlua:20210707175521p:plain

劇場版ポケットモンスターでは、「自己犠牲からの復活」というモチーフが繰り返し現れる。ポケモン映画第1作『ミュウツーの逆襲』では、ポケモンとコピーポケモン同士の痛々しい戦いを、主人公・サトシが自分を犠牲にして休戦させる。サトシはミュウとミュウツーの念力を全身で受け止め、石になってしまう。サトシの自己犠牲はポケモンとコピーポケモンの心を動かし、涙ぐむポケモンたちの思いによって、サトシは奇跡の復活を遂げる。
 

f:id:amaikahlua:20210707175656p:plain

脚本家が首藤剛志から他の脚本家に交代しても、ポケモン映画では「自己犠牲からの復活」という遺伝子が受け継がれていく。園田英樹脚本の『水の都の護神』では、水の都に押し寄せる大津波ラティアスラティオスが阻止する。ラティオスは一旦消滅するのだが、キーアイテム「こころのしずく」に生まれ変わる。つまりラティオスは自己犠牲によって死亡し、こころのしずくという姿で「復活」したわけだ。米村正二脚本の『キミにきめた!』では、ポケモンたちの集中攻撃からピカチュウを庇ったサトシが一旦消滅するのだが、やはり復活する。
 

f:id:amaikahlua:20210707175814p:plain

近ごろ私が偏愛する「自己犠牲からの復活」は、『ディアルガvsパルキアvsダークライ』のラストである。ダークライは、伝説のポケモンディアルガパルキアの衝突を仲裁する。しかしディアルガパルキアの破壊力は凄まじく、ダークライは途中で消滅してしまう。サトシたちはダークライの死を悲しむが、実はダークライは生きていた!…というのが『ディアルガvsパルキアvsダークライ』のオチである。こうしてダークライも、「自己犠牲からの復活」を遂げたのである。
 

「死ぬことによって、かえって生を得る」という逆説

脚本家の首藤氏のコラムによると、ミュウツーの逆襲』で描かれた「自己犠牲からの復活」は、海外のキリスト教徒に称賛されたそうだ。イギリス国教会のアン・リチャーズ神学担当官は、『ミュウツーの逆襲』から「死と復活」というキリスト教的メッセージを読み取ったという。確かにキリスト教教義学でも、「死ぬことによって、かえって生を得る」という逆説が繰り返し現れる。*1その一例として、「ルカによる福音書」を引用しよう。
 

f:id:amaikahlua:20210707180137p:plain

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(「ルカによる福音書」9.23-24)
 
ポケモン映画は「自己犠牲からの復活」を繰り返し、利他的な行為によってかえって自己の生命が救済されるという神学的な逆説を表現していると解釈できるだろう。自己中心的でありエゴイズムに走りがちな子供に見せる訓話としてポケモン映画の自己犠牲には教育的効果が期待できそうだ。
 

アンチテーゼ「自己保存」

自己犠牲は、ポケモン映画やキリスト教教義学で繰り返される重要テーゼであるポケモン映画第2作『幻のポケモン ルギア爆誕』でも、サトシが世界を救うために命がけで冒険する。サトシの命がけの冒険は、自分の命を危険に曝しているがゆえに、一種の自己犠牲だと言えるだろう。ということは、『ルギア爆誕もまた、自己犠牲を賞揚する映画だったのだろうか?いや、そうとは言いきれまい。なんと『ルギア爆誕』のラストでは、サトシのママがサトシに自分の命を大切にすること…すなわち「自己保存」を勧めるのだ!
 

f:id:amaikahlua:20210707180524j:plain

ママ「サトシ!見てたわよ!なんて危ないことするの!」
カスミ「でも、サトシは、この世界を救ったんですよ?」
ママ「それがなんなの?あなたはまだ子供なんだから、無茶はダメ!世界を救う?命がけでする事?サトシがいなくなったら、サトシの世界はもうないの。私の息子はもういないの!あなたがいるから、世界はあるの!…サトシ、あなたはこの世界で何をしたかったの?
サトシ「俺は…ポケモンマスターに」
ママ「だったら、無理せずに、それを目指しなさい?
サトシ「だよね!」
 
ミュウツーの逆襲』ではサトシの「自己犠牲からの復活」が描かれ、続く『ルギア爆誕でも相変わらずサトシの自己犠牲が賞揚されているかのように見えた。しかし『ルギア爆誕』のラストでは、これまでヒロイックに描かれたサトシの自己犠牲が批判されるのだ。サトシはママの子供であり、自己犠牲を体現する主人公である。一方、ママはサトシの親であり、主人公に自己保存というアンチテーゼを語る。『ルギア爆誕のラストで、サトシはママの言うことに素直に従った。『ルギア爆誕』の結末では親が子供に、自己保存が自己犠牲に勝利したわけだ。
 

f:id:amaikahlua:20210707181937p:plain

ポケモン映画第3作『結晶塔の帝王』では、前作『ルギア爆誕で勝利した親と自己保存が、サトシの敵対勢力になる。結晶塔の帝王』では、前作で自己保存を説いたサトシのママが催眠術をかけられ、敵側の結晶塔に拉致される。そして伝説のポケモンエンテイは、強大な父親役を演じる。こうして〈母親〉と〈父親〉…あるいは〈母性〉と〈父性〉が、サトシの敵地に回るのだ。さらに結晶塔には、ミーという引きこもりの少女が自閉している。自閉する引きこもりが自己保存を象徴していることは見やすいだろう。そう、『結晶塔の帝王』では、親によって擁立された自己保存というアンチテーゼとの戦いが描かれるのだ。
 
次回、我々は『結晶塔の帝王』の批評を通じて、ポケモン映画のアンチテーゼの深層を探らなければならない。「自己犠牲」というテーゼに対立する、「自己保存」という問題に。
(C)ピカチュウプロジェクト

*1:轟孝夫『ハイデガー存在と時間」入門』、講談社現代新書、二〇一七、二九四頁。