かるあ学習帳

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ニーチェと『終ノ空』琴美END~無限のなかの有限とはなにか~

1999年版『終ノ空』琴美ENDは、ニーチェ哲学と密接な関係を持っている。今回はニーチェを補助線にして『終ノ空琴美ENDを解読しよう。キーワードは「プラトニズムの逆転」「パースペクティビズム」「永遠回帰」「運命愛」である。
 

プラトニズムの逆転とパースペクティビズム

f:id:amaikahlua:20210802191001p:plainニーチェ(1844~1900)

私の哲学は逆転したプラトニズム。真実な存在者から遠く離れているほど、いよいよ純粋に、いよいよ美しく、いよいよ善く……。目標はー仮象における生*1
 
ニーチェは、プラトニズムを逆転したことで知られる哲学者である。プラトニズムとは、かなり大雑把に言うと、超感性的な世界を《真の世界》だとみなす考え方である。*2プラトニズムは、私たちが内在している感性世界の背後に、理想的な「背後世界」を設定する。そしてプラトニズムは感性世界を低次元なものとみなし、背後世界を高次元なものとみなす。私たちが内在している感性世界は所詮《仮象の世界》であり、感性を超えた背後世界が《真の世界》とする。これがプラトニズムの戦略だと言えるだろう。
 
その一方でニーチェプラトニズムを逆転し、私たちが内在している感性世界を上位の世界として位置付け・感性を超えた背後世界を下位の世界として横たえた。さらにニーチェは、超感覚的な背後世界を廃絶しようとした。プラトニズムは身近な感性世界を否定している。そうではなくて、逆に感性世界を肯定し、感性的な現実に帰れとニーチェは言うのである。
 

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 真の世界を除去することが、決定的に重要である。真の世界があればこそ、私たち自身がそれである世界が大いに疑問視され、その価値を減ぜられる。すなわち、真の世界はこれまで私たちにとって生の最も危険な謀殺であったのである。*3
 
終ノ空』の主人公・水上行人が間宮卓司に語った思想は、ニーチェと問題圏を共有している。行人は間違いだらけの感性世界を、間違いだらけであるが故に正当化する。これは私たちが内在している感性世界を上位だとみなすニーチェ立場に符合する。「この誤謬の世界/それこそが/それゆえに正しいものさ」という行人の発言は、プラトニズムが誤謬だとみなす感性世界を認可している。
 

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行人「いいや」
行人「生きなくともいい」
行人「ただ
行人「見つめる事だ
卓司「見つめる?」
行人「そうだ
行人「呪われた、生を
行人「祝福された、生を
行人「呪われた、死を
行人「祝福された、死を
行人「見つめる事だ
(中略)
行人「この誤謬の世界
行人「それこそが
行人「それゆえに正しいものさ
行人「それが」
行人「どんなに」
行人「俺達にとって」
行人「グロテスクな姿を見せても」
行人「それを
行人「見続ける
行人「それが
行人「正しさだ
行人「世界を見続ける…
行人「それが
行人「俺達の責任の取り方だ!
 
行人が「見る」という感性的な行為を肯定している点に注目して欲しい。私たちは、私たちが内在する感性世界をそれぞれのパースペクティブ(=視点)から「見て」いる。この感性世界は人それぞれのパースペクティブから観測されており、人々から感性的に「見られる」世界には生き生きとした現実感が付与される。終ノ空では同じ世界が水上行人・若槻琴美・高島ざくろ間宮卓司によって「見られる」。終ノ空』の「マルチビューシステム」は、リアルなものはパースペクティブ的だというニーチェの「パースペクティビズム(遠近法主義)」の実践であると解釈できるだろう。さて、ハイデガーニーチェ講義から引用しよう。
 

f:id:amaikahlua:20210721180330p:plainハイデガー(1889~1976)

(中略)すべての存在者はそれ自身においてパースペクティブ的に知覚するものであり、すなわちここで画定した意味において《感性的》である。
 感性的なものとは、もはや《仮象的なもの》ではなく、もはや曇らされたものではない。それこそが、ひとりリアルなもの、すなわち《真なるもの》なのである。*4
 

永遠回帰と運命愛

理性の限界を超えて突き進んだ卓司とは違って、行人は理性の限界で立ち止まった。卓司が言う通り、この感性世界は間違いだらけなのかもしれない。しかし行人は立ち止まり、間違いだらけのこの感性世界を観測し続ける。なぜなら、なんやかんやで行人はこの感性世界を愛しているからだ。そんな行人が彩名は好きだったし、卓司も好きだった。
 

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彩名「ゆきとくん」
彩名「たぶん
彩名「わたし、ゆきとくんが好きだったんだと思う
行人「はぁ?」
彩名「世界を祝福できるゆきとくんを」
彩名「自らの生を祝福できるゆきとくんを…」
行人「祝福?」
彩名「たぶん、卓司くんも…」
行人「なんだよ、それ?」
彩名「だって、ゆきとくんは愛しているんだもん
行人「何を?
彩名「世界を
彩名「だから、ここで、見つめていられる
 

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彩名「ゆきとくん」
彩名「わたし、わたしとして、ゆきとくんに出会えた事を感謝してる
(中略)
彩名「また
彩名「また会えるといいね
行人「?」
彩名「無限のなかの有限のうちに…
行人「なに、わけわかんない事いってるんだよ」
彩名「永久回帰って本当かな…
 
おそらく上述の彩名の発言は、ニーチェ永遠回帰と運命愛に関する予備知識が無ければ、意味不明だろう。
 
永遠回帰(永久回帰、永劫回帰)とはニーチェの術語で、万物が全く同じ姿で無限に繰り返される現象を指す。時間を過去→現在→未来に向かって進む直線だと考えると、時間には始まりと終わりがあり、歴史上の個々の出来事は一回きりである。しかし時間の始まりと終わりを接着して(?)円環として考えると、歴史上の全ての出来事はループし、無限に繰り返される。幸福な時間は一回だけで終わるのが惜しく、無限に繰り返されて欲しいものだ。彩名は永遠回帰を要請し、行人に出会えた幸福な時間が無限に再生されることを望んだのであろう。
 
ニーチェ永遠回帰を肯定するための態度として、「運命愛」を挙げた。運命愛というのは、無限に繰り返される歴史上の全ての出来事を「これでいいのだ」と肯定し、永遠と必然性を愛する態度である。彩名は行人に出会えた運命を愛し、〈無限〉に繰り返される円環時間の中の〈有限〉で幸福な時間として、あるいは〈無限〉の円環時間の中の〈有限〉な物質世界の出来事として、行人と再会することを希望した。これが彩名の言う「無限のなかの有限のうちに…」という言葉の真意であろう。
 

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 第一に問うべきは、私たちが、はたしておのれに満足しているかどうかということでは全然なく、はたして総じてなんらかのものに満足しているかということであるもし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも事物のうちにも、何ひとつとしてないからである。だから、私たちの魂がたった一回だけでも、絃のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件づけるためには、全永遠が必要であったのでありーまた全永遠は、私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである。*5
 
私たちはたった一瞬でも幸福に感じられる時間を体感することによって、その時間までに必要とされた万物を肯定できる。そして直線時間ではなく円環時間を採用することにより、特定の時間の肯定は時間全体の肯定へと拡張しうる。彩名にとって行人に出会えたことは幸福な出来事であり、円環時間で繰り返される万物を肯定するに足りる出来事であった。かくして彩名は運命を愛し、永遠回帰を要請したのである。

*1:ハイデガー(細谷監訳)『ニーチェI』、平凡社ライブラリー、一九九七、二一四頁。

*2:もっともハイデガーによれば、《真の世界》や《仮象の世界》という言い方はニーチェの語法であり、プラトン本人の言葉ではないらしい。しかし本稿では正確さよりもわかりやすさを優先し、《真の世界》仮象の世界》というニーチェ的な語法を導入することにした

*3:ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 下』、ちくま学芸文庫、一九九三、一一八頁。

*4:ハイデガーニーチェI』、前掲、二九一頁。

*5:ニーチェ『権力への意志 下』、前掲、五一一頁。

ゲーム版/小説版『沙耶の唄』の考察をアップデートしました(・∀・)

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長大な考察記事を書き終わって放心状態のわたし

オッス!!オラ管理人!!!

 
唐突ですが、私は今、クタクタに疲れています。
なぜかって?
そりゃあお前、2年前の2月1日に書いたゲーム版/小説版『沙耶の唄の考察記事を根源的大幅加筆修正したからだよ。
(知らねーよ)
 
私は2年前の2月1日に、ゲーム版/小説版『沙耶の唄の考察を鼻息を荒くして書きました。
当時の私は、この考察を超・自信作として世に送り出しました。
しかし今改めてこの考察を読んでみると、目も当てられぬ稚拙な内容。
なのにこの記事には、今でもyahooとかから大勢のアクセスが殺到しているとかいう羞恥プレイ。
あまりの恥ずかしさに耐えられなかった私は、この『沙耶の唄の考察を必死で書き直していたというわけさ!
 
今の私は長文を書きまくってヘトヘトに疲れていて、堅苦しい上から目線で「だ・である」調の新作考察記事を投稿する余力が残ってないのよ、わかってくれるかい?
でもついでに、それらしい事を少し書き残しておくか。
 
改めて考察してみると、『終ノ空』と『沙耶の唄』には、けっこう共通する点が多い。まず、クトゥルー神話へのオマージュと世界の終わりが描かれているという点で両者は共通している。さらに踏み込んだ事を言うと、『終ノ空』と『沙耶の唄』では、両方とも主体者によって見える世界が違ってくる事が描かれているし、理性が主題化しているところも共通していると思う。みたいな事をぱっと思い付いた。両者が似てるから何だって話だけど。
 
ほい、閑話休題
疲れすぎてしっかりした文章が書けなくてすみません。
えぇっ、これぐらいの改行が多い文章の方がかえって読みやすくていいって
すまんな、困っちゃうね。
でも俺、次回はけっこう堅苦しい考察記事を投稿する予定だから。
いつか『沙耶の唄』と『仮面ライダー鎧武』に関する批評を書きたいよなあ。
でも『鎧武』を全話見直すのがしんどそう。
書くとしたら来年ごろかな。
 
では、今回はこの辺で!!
またこんど!!!(平沢進風に)

不安とはなにか~ハイデガー・終ノ空remake・芥川龍之介~

私は最近、不安について考える事が多い。とりあえず考えがまとまったので、今回は不安について書いてみようと思う。私が参照するのはハイデガーの哲学、ノベルゲーム『終ノ空remake』、芥川龍之介の文学である。

「不安」と「怖れ」の違い

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ハイデガーは主著『存在と時間』で、「不安」と「怖れ」の違いについて語っている。まず、ハイデガーの言う「怖れ」について説明しよう。怖れとは、自分を狙う凶器や殺人犯、会社の倒産のような出来事など、「世界の内部で出会う対象」を恐怖することを意味している。私たちは普段「新型コロナウイルスに感染しそうで不安だ」「自分の会社が倒産しそうで不安だ」とか言う。しかしハイデガーは、「それは不安ではなく怖れだ」と言うであろう。
 

f:id:amaikahlua:20210721180330p:plainハイデガー(1889~1976)

 ひとがそれに臨んで怖れるもの、「怖ろしいもの」とは、そのときどきに応じて、用具的なものとか、客体的なものとか、あるいは共同現存在とかのありかたで世界の内部で出会うものである。われわれは、どういう存在者がしばしばたいてい「怖ろしく」なるかを、存在的に報告しようとしているわけではなく、怖ろしいものをその怖ろしさという点について現象的に規定しようとするのである。*1
 
次に、問題の「不安」について説明する。私たちが何かを怖れているとき、何が怖ろしいのかを現象的に規定することは可能だ。一方、不安は怖れとは違って、不安の対象を全く規定できないとハイデガーは考えた。世界のどこを見渡しても、不安の理由は漠然としている。不安になると日常的な意味が問題にならなくなる。このように私たちを非日常に誘う根本気分を、ハイデガーは不安と呼んだのだ。
 

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不安の「対象」は、まったく無規定である。それが無規定であるために、世界の内部のどの存在者から危険が迫ってくるのかが事実上決定できないだけでなく、そもそもかような存在者は「問題にならなく」なっている。(中略)用具的なものと客体的なものとの、内世界的に発見された趣向全体性は、そもそも全体として重要さを失う。それらはひとりでに崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。*2
 

虚構と日常のベールを剥がす

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前作『終ノ空』では、卓司が見た幻覚が「不安」であると明記されている

電波ノベルゲーム『終ノ空remake』の登場人物・間宮卓司は、夕暮れの学校で不安な幻覚を見る。歪んだ人間の顔が宙に浮かんでいるような幻覚。不安な幻覚は、「てけ・り」という意味不明な言葉を発している。結論を先取りして言うと、卓司が見た幻覚は、理論上は規定できないはずの不安の対象が電波ビジュアル化したものだと考えられる。
 
卓司は人間を超越した存在になる前から、大衆は嘘を教えられており・教育は子供たちを洗脳していると考えていた。つまり、一般大多数の人々は虚構を教わり、虚構を信じているというわけだ。魔法少女リルルと交信して救世主に生まれ変わった卓司は、世界が嘘に満ちていることを衆生に力説する。
 

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卓司「嘘なのだ!
卓司「すべては嘘であったのだ!
卓司「日常とは嘘で塗り固められた虚構にしか過ぎない
卓司「その様な虚構は、脆く簡単に崩れ去るだろう」
卓司「今まさに、その時が来ようとしている!」
卓司「世界がこれからずっと今までの様にあるか?」
卓司「何故、そんな簡単な嘘に惑わされるのだ!」
 

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卓司「意味などない!
卓司「我々の人生の意味はそこにはないのだ
卓司「しかし、我々の人生に意味がなかった事など認められるわけがない!」
卓司「我々、人類の意味がなかった、など認められない」
卓司「だから、我々は、終わりを認められないのだ」
卓司「我々の、世界の、終わりを、絶対的、最後を、認めないのだ!」
卓司「しかし、それは、弱い心でしかない!」
卓司「我々は、今までの我々の不条理さ、不合理さ、を認め
卓司「さらに、我々の終わりを受け入れなければならない!
卓司「無意味な人類の!一生を!受け入れなければならない!!!
 
金沢大学教授の仲正昌樹は、私たちが普段身を置いている指示連関には何の根拠もなく・無意味かもしれないという疑念を唱えている。そして私たちの日常的な世界が無意味かもしれないという予感が、ハイデガーの言う不安を誘発すると考えられるそうだ。
 

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私たちは、日々の行動の一挙手一投足にどんな意味があるのかいちいち意識しないし、本気で考えることもないが、指示連関を辿っていくと、何がしかの人間らしい意味が見出だされるであろう、と漠然と思っているふしがあるが、それは単なる思い込みかもしれない。動物的な反応と単なる習慣の連鎖の中で生きているだけで、その背後には、別に何の意味もないかもしれない。そうでないという保証はない。そうした、それまで安心し、慣れ親しんできた「世界」の無意味性に対する予感が、「不安」を誘発するのかもしれないーー*3
 
卓司は一般大多数の人々が信じている虚構を嘘だと喝破し、人々が慣れ親しんでいる日常的な意味世界も無意味だと言い切っている。卓司には人間世界を覆う虚構と日常のベールを剥がし取る素質があった。そうした卓司の非凡なセンスがハイデガー的な不安を誘発し、理論上は規定できないはずの不安の対象を電波ビジュアル化させたのだろうと推測できる。
 

芸術はぼんやりとした不安を語る

f:id:amaikahlua:20210721181702p:plain芥川龍之介(1892~1927)

最後に、文豪・芥川龍之介の自殺について触れておこう。芥川は「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」によって死を選択した。芥川の自殺は不可解であり、「芥川が死んだ理由」を真剣に考察する書籍やネット上の記事は数多い。芥川が死んだ理由が気になるのは人として当然の反応だが、芥川の「ぼんやりとした不安」を明晰に論じるのには限界があると私は思っている。
 

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これは私の憶測だが、芥川が感じた「ぼんやりとした不安」ハイデガーの「不安」と同じようなもので、非日常的なものではないだろうか。世界の内部に存在する事実や事物と違って、ぼんやりとした不安の対象は規定できない。ぼんやりとした不安はその性質上こういうものだと明晰に語ることができないので、曖昧な芸術や比喩によってしか表現できないだろう。晩年の芥川は「蜃気楼」「歯車」のように病的な小説を執筆したが、ぼんやりとした不安はそうした詩的な芸術でしか表現できない根本気分だろうと思う。
 
世界の内部に存在する事実や事物をこの上なく明晰に語れる究極の言語をもってしても、芥川のぼんやりとした不安については、おそらく明晰に語ることはできないだろう。芥川のぼんやりとした不安は、曖昧な「芸術」や「文学」や「電波ゲーム」のような媒体でしか表現できないのではあるまいか。だから、芥川のぼんやりとした不安を凡庸な言語で説明しようとする試みは、何らかの形で暴力的であることを免れないはずだ。

*1:ハイデガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』、ちくま学芸文庫、一九九四、三〇四頁。

*2:同上、三九三頁。

*3:仲正昌樹ハイデガー哲学入門ー「存在と時間」を読む』、講談社現代新書、二〇一五、一二三頁。