かるあ学習帳

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不安とはなにか~ハイデガー・終ノ空remake・芥川龍之介~

私は最近、不安について考える事が多い。とりあえず考えがまとまったので、今回は不安について書いてみようと思う。私が参照するのはハイデガーの哲学、ノベルゲーム『終ノ空remake』、芥川龍之介の文学である。

「不安」と「怖れ」の違い

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ハイデガーは主著『存在と時間』で、「不安」と「怖れ」の違いについて語っている。まず、ハイデガーの言う「怖れ」について説明しよう。怖れとは、刃物のような道具や人間のような生命体、会社の倒産のような出来事など、「世界の内部で出会う物事」を恐怖することを意味している。私たちは普段「新型コロナウイルスに感染しそうで不安だ」「自分の会社が倒産しそうで不安だ」とか言う。しかしハイデガーは、「それは不安ではなく怖れだ」と言うであろう。
 

f:id:amaikahlua:20210721180330p:plainハイデガー(1889~1976)

 ひとがそれに臨んで怖れるもの、「怖ろしいもの」とは、そのときどきに応じて、用具的なものとか、客体的なものとか、あるいは共同現存在とかのありかたで世界の内部で出会うものである。われわれは、どういう存在者がしばしばたいてい「怖ろしく」なるかを、存在的に報告しようとしているわけではなく、怖ろしいものをその怖ろしさという点について現象的に規定しようとするのである。*1
 
次に、問題の「不安」について説明する。私たちが何かを怖れているとき、何が怖ろしいのかを現象的に規定することは可能だ。一方、不安は怖れとは違って、何が不安なのかを全く規定できないとハイデガーは考えた。何が原因で不安なのかがよくわからない。世界のどこを見渡しても、不安の理由が見当たらない。不安になると日常的な意味が問題にならなくなる。このように私たちを非日常に誘う根本気分を、ハイデガーは不安と呼んだのだ。
 

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不安の「対象」は、まったく無規定である。それが無規定であるために、世界の内部のどの存在者から危険が迫ってくるのかが事実上決定できないだけでなく、そもそもかような存在者は「問題にならなく」なっている。(中略)用具的なものと客体的なものとの、内世界的に発見された趣向全体性は、そもそも全体として重要さを失う。それらはひとりでに崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。*2
 

虚構と日常の向こう側

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前作『終ノ空』では、卓司が見た幻覚が「不安」であると明記されている

電波ノベルゲーム『終ノ空remake』の登場人物・間宮卓司は、夕暮れの学校で不安な幻覚を見る。歪んだ人間の顔が宙に浮かんでいるような幻覚。不安な幻覚は、「てけ・り」という意味不明な言葉を発している。結論を先取りして言うと、卓司が見た幻覚は、理論上は規定できないはずの不安の対象が電波ビジュアル化したものだと考えられる。
 
卓司は人間を超越した存在になる前から、大衆は嘘を教えられており・教育は子供たちを洗脳していると考えていた。つまり、一般大多数の人々は虚構を教わり、虚構を信じているというわけだ。魔法少女リルルと交信して救世主に生まれ変わった卓司は、世界が嘘に満ちていることを衆生に力説する。
 

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卓司「嘘なのだ!
卓司「すべては嘘であったのだ!
卓司「日常とは嘘で塗り固められた虚構にしか過ぎない
卓司「その様な虚構は、脆く簡単に崩れ去るだろう」
卓司「今まさに、その時が来ようとしている!」
卓司「世界がこれからずっと今までの様にあるか?」
卓司「何故、そんな簡単な嘘に惑わされるのだ!」
 

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卓司「意味などない!
卓司「我々の人生の意味はそこにはないのだ
卓司「しかし、我々の人生に意味がなかった事など認められるわけがない!」
卓司「我々、人類の意味がなかった、など認められない」
卓司「だから、我々は、終わりを認められないのだ」
卓司「我々の、世界の、終わりを、絶対的、最後を、認めないのだ!」
卓司「しかし、それは、弱い心でしかない!」
卓司「我々は、今までの我々の不条理さ、不合理さ、を認め
卓司「さらに、我々の終わりを受け入れなければならない!
卓司「無意味な人類の!一生を!受け入れなければならない!!!
 
金沢大学教授の仲正昌樹は、私たちが普段身を置いている指示連関には何の根拠もなく・無意味かもしれないという疑念を唱えている。そして私たちの日常的な世界が無意味であるという予感が、ハイデガーの言う不安を誘発するのかもしれないそうだ。
 

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私たちは、日々の行動の一挙手一投足にどんな意味があるのかいちいち意識しないし、本気で考えることもないが、指示連関を辿っていくと、何がしかの人間らしい意味が見出だされるであろう、と漠然と思っているふしがあるが、それは単なる思い込みかもしれない。動物的な反応と単なる習慣の連鎖の中で生きているだけで、その背後には、別に何の意味もないかもしれない。そうでないという保証はない。そうした、それまで安心し、慣れ親しんできた「世界」の無意味性に対する予感が、「不安」を誘発するのかもしれないーー*3
 
卓司は一般大多数の人々が信じている虚構を嘘だと喝破し、人々が慣れ親しんでいる日常的な意味世界も無意味だと言い切っている。卓司には人間世界を覆う虚構と日常のベールを剥がし取る素質があった。そうした卓司の非凡なセンスがハイデガー的な不安を誘発し、理論上は規定できないはずの不安の対象を電波ビジュアル化させたのだろうと推測できる。
 

芸術はぼんやりとした不安を語る

f:id:amaikahlua:20210721181702p:plain芥川龍之介(1892~1927)

最後に、文豪・芥川龍之介の自殺について触れておこう。芥川は「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」によって死を選択した。芥川の自殺は不可解であり、「芥川が死んだ理由」を真剣に考察する書籍やネット上の記事は数多い。芥川が死んだ理由が気になるのは人として当然の反応だが、芥川の「ぼんやりとした不安」を明晰に論じるのには限界があると私は思っている。
 

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これは私の憶測だが、芥川が感じた「ぼんやりとした不安」ハイデガーの「不安」と同じようなもので、日常的な意味世界の向こう側にあるものではないだろうか。世界の内部に存在する事実や事物と違って、ぼんやりとした不安の対象は規定できない。ぼんやりとした不安はその性質上こういうものだと明晰に語ることができないので、曖昧な芸術や比喩によってしか表現できないだろう。晩年の芥川は「蜃気楼」「歯車」のように病的な小説を執筆したが、ぼんやりとした不安はそうした詩的な芸術でしか表現できない根本気分だろうと思う。
 
世界の内部に存在する事実や事物をこの上なく明晰に語れる究極の言語をもってしても、芥川のぼんやりとした不安については、おそらく明晰に語ることはできないだろう。芥川のぼんやりとした不安は、曖昧な「芸術」や「文学」や「電波ゲーム」のような媒体でしか表現できないのではあるまいか。だから、芥川のぼんやりとした不安を凡庸な言語で説明しようとする試みは、何らかの形で暴力的であることを免れないはずだ。

*1:ハイデガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』、ちくま学芸文庫、一九九四、三〇四頁。

*2:同上、三九三頁。

*3:仲正昌樹ハイデガー哲学入門ー「存在と時間」を読む』、講談社現代新書、二〇一五、一二三頁。