ニーチェと『終ノ空』琴美END~無限のなかの有限とはなにか~
1999年版『終ノ空』琴美ENDは、 ニーチェ哲学と密接な関係を持っている。 今回はニーチェを補助線にして『終ノ空』 琴美ENDを解読しよう。キーワードは「プラトニズムの逆転」「 パースペクティビズム」「永遠回帰」「運命愛」である。
プラトニズムの逆転とパースペクティビズム
ニーチェ(1844~1900)
ニーチェは、 プラトニズムを逆転したことで知られる哲学者である。 プラトニズムとは、かなり大雑把に言うと、超感性的な世界を《 真の世界》だとみなす考え方である。*2プラトニズムは、 私たちが内在している感性世界の背後に、理想的な「背後世界」 を設定する。 そしてプラトニズムは感性世界を低次元なものとみなし、 背後世界を高次元なものとみなす。 私たちが内在している感性世界は所詮《仮象の世界》であり、 感性を超えた背後世界が《真の世界》とする。 これがプラトニズムの戦略だと言えるだろう。
その一方でニーチェはプラトニズムを逆転し、 私たちが内在している感性世界を上位の世界として位置付け・ 感性を超えた背後世界を下位の世界として横たえた。 さらにニーチェは、超感覚的な背後世界を廃絶しようとした。 プラトニズムは身近な感性世界を否定している。そうではなくて、 逆に感性世界を肯定し、 感性的な現実に帰れとニーチェは言うのである。
真の世界を除去することが、決定的に重要である。 真の世界があればこそ、 私たち自身がそれである世界が大いに疑問視され、 その価値を減ぜられる。すなわち、 真の世界はこれまで私たちにとって生の最も危険な謀殺であったの である。*3
『終ノ空』の主人公・水上行人が間宮卓司に語った思想は、 ニーチェと問題圏を共有している。 行人は間違いだらけの感性世界を、 間違いだらけであるが故に正当化する。 これは私たちが内在している感性世界を上位だとみなすニーチェの 立場に符合する。「この誤謬の世界/それこそが/ それゆえに正しいものさ」という行人の発言は、 プラトニズムが誤謬だとみなす感性世界を認可している。
行人「いいや」
行人「生きなくともいい」
行人「ただ」
行人「見つめる事だ」
卓司「見つめる?」
行人「そうだ」
行人「呪われた、生を」
行人「祝福された、生を」
行人「呪われた、死を」
行人「祝福された、死を」
行人「見つめる事だ」
(中略)
行人「この誤謬の世界」
行人「それこそが」
行人「それゆえに正しいものさ」
行人「それが」
行人「どんなに」
行人「俺達にとって」
行人「グロテスクな姿を見せても」
行人「それを」
行人「見続ける」
行人「それが」
行人「正しさだ」
行人「世界を見続ける…」
行人「それが」
行人「俺達の責任の取り方だ!」
行人が「見る」 という感性的な行為を肯定している点に注目して欲しい。 私たちは、 私たちが内在する感性世界をそれぞれのパースペクティブ(= 視点)から「見て」いる。 この感性世界は人それぞれのパースペクティブから観測されており 、人々から感性的に「見られる」 世界には生き生きとした現実感が付与される。『終ノ空』 では同じ世界が水上行人・若槻琴美・高島ざくろ・ 間宮卓司によって「見られる」。『終ノ空』の「 マルチビューシステム」は、 リアルなものはパースペクティブ的だというニーチェの「 パースペクティビズム(遠近法主義)」 の実践であると解釈できるだろう。さて、 ハイデガーのニーチェ講義から引用しよう。
ハイデガー(1889~1976)
(中略) すべての存在者はそれ自身においてパースペクティブ的に知覚する ものであり、すなわちここで画定した意味において《感性的》 である。
永遠回帰と運命愛
理性の限界を超えて突き進んだ卓司とは違って、 行人は理性の限界で立ち止まった。卓司が言う通り、 この感性世界は間違いだらけなのかもしれない。 しかし行人は立ち止まり、 間違いだらけのこの感性世界を観測し続ける。なぜなら、 なんやかんやで行人はこの感性世界を愛しているからだ。 そんな行人が彩名は好きだったし、卓司も好きだった。
彩名「ゆきとくん」
彩名「たぶん」
彩名「わたし、ゆきとくんが好きだったんだと思う」
行人「はぁ?」
彩名「世界を祝福できるゆきとくんを」
彩名「自らの生を祝福できるゆきとくんを…」
行人「祝福?」
彩名「たぶん、卓司くんも…」
行人「なんだよ、それ?」
彩名「だって、ゆきとくんは愛しているんだもん」
行人「何を?」
彩名「世界を」
彩名「だから、ここで、見つめていられる」
彩名「ゆきとくん」
彩名「わたし、わたしとして、 ゆきとくんに出会えた事を感謝してる」
(中略)
彩名「また」
彩名「また会えるといいね」
行人「?」
彩名「無限のなかの有限のうちに…」
行人「なに、わけわかんない事いってるんだよ」
彩名「永久回帰って本当かな…」
永遠回帰(永久回帰、永劫回帰)とはニーチェの術語で、 万物が全く同じ姿で無限に繰り返される現象を指す。時間を過去→ 現在→未来に向かって進む直線だと考えると、 時間には始まりと終わりがあり、 歴史上の個々の出来事は一回きりである。 しかし時間の始まりと終わりを接着して(?) 円環として考えると、歴史上の全ての出来事はループし、 無限に繰り返される。幸福な時間は一回だけで終わるのが惜しく、 無限に繰り返されて欲しいものだ。彩名は永遠回帰を要請し、 行人に出会えた幸福な時間が無限に再生されることを望ん だのであろう。
ニーチェは永遠回帰を肯定するための態度として、「運命愛」 を挙げた。運命愛というのは、 無限に繰り返される歴史上の全ての出来事を「これでいいのだ」 と肯定し、永遠と必然性を愛する態度である。 彩名は行人に出会えた運命を愛し、〈無限〉 に繰り返される円環時間の中の〈有限〉で幸福な時間として、 あるいは〈無限〉の円環時間の中の〈有限〉 な物質世界の出来事として、行人と再会することを希望した。 これが彩名の言う「無限のなかの有限のうちに…」 という言葉の真意であろう。
第一に問うべきは、私たちが、 はたしておのれに満足しているかどうかということでは全然なく、 はたして総じてなんらかのものに満足しているかということである 。 もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するな ら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、 すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、 それだけで孤立しているものは、 私たち自身のうちにも事物のうちにも、 何ひとつとしてないからである。だから、 私たちの魂がたった一回だけでも、絃のごとくに、 幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、 このただ一つの生起を条件づけるためには、 全永遠が必要であったのでありーまた全永遠は、 私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、 認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである。*5
私たちはたった一瞬でも幸福に感じられる時間を体感することによ って、その時間までに必要とされた万物を肯定できる。 そして直線時間ではなく円環時間を採用することにより、 特定の時間の肯定は時間全体の肯定へと拡張しうる。 彩名にとって行人に出会えたことは幸福な出来事であり、 円環時間で繰り返される万物を肯定するに足りる出来事であった。 かくして彩名は運命を愛し、永遠回帰を要請したのである。