かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『青い空のカミュ』体験版レビュー~世界は優しく無関心なのだろうか?~

今回は、3月29日に発売予定の18禁美少女ゲーム芸術性が高くてエロ重視じゃない作品だったから、特にこの作品は個人的にエロゲーと呼びたくない)『青い空のカミュ体験版のレビューをします。『青い空のカミュ体験版とアルベール・カミュの小説の関係を見ていきつつ。

 

f:id:amaikahlua:20190307093614j:plain

『青い空のカミュ』体験版
シナリオ・原画:〆鯖コハダ
(C)KAI
2019年2月21日公開
 

f:id:amaikahlua:20190307093701j:plain

『青い空のカミュ』体験版のメニュー画面には、“I opened myself to the gentle indifference of the world”と書いてあります。この英文は、アルベール・カミュの小説『異邦人』の結末の文章を英訳したものです。この英文を日本語に訳すと、私は世界の優しい無関心に心を開いた」。死刑囚になった『異邦人』の主人公ムルソーが、刑務所の外にある平和な自然を感じとり、心を開く場面からの引用ですね。*1
 
この英文とメニュー画面に描かれているのどかな自然の背景から、このゲームは平和で優しい自然に心を癒される感じのお話なのかな?」と想像したくなるじゃないですか?実際のところどうなのか、体験版をプレイして確かめてみましょう(・∀・)
 

f:id:amaikahlua:20190307094348j:plain

『青い空のカミュ』の主人公は、燐ちゃんと蛍ちゃん。燐は活発な女の子で、蛍は大人しめのお嬢様。カミュの『異邦人』の物語は夏の夕暮れの情景で終わるんですけど、『青い空のカミュ体験版のシナリオは夏の夕暮れの情景から始まっているんですよねなにか関係があるのかな?そこんところ要チェックってことで。
 

f:id:amaikahlua:20190307094534j:plain

電車に乗って「小平口」という駅に降りた燐と蛍は、様々な怪奇現象に遭遇します。例えば、電車にへばりついている蛾の羽に悪意に満ちた人間の目玉のような模様が付いていたり。顔がないゾンビのような「なにか」に襲われたり。はっきり言ってこのゲーム、かなり不気味で怖いですw
 
今回の体験版には、燐と蛍が世界の優しい無関心に心を開く場面はありませんでした(苦笑)。それどころか、世界は燐と蛍に対して悪意を向けていると思いました。蛾の羽の模様や「なにか」は燐と蛍を脅かす存在ですし、たくさんの木々が燐と蛍の逃げ道を邪魔する場面もありました。燐と蛍がたまにワープする「青いドアの家」の世界も、現時点の彼女たちには謎だらけですしね。
 

f:id:amaikahlua:20190307094814j:plain

あえて言うなら、燐と蛍が全裸で月夜のプールに入る場面は、優しい感じがしました。しかしおそらく、この場面はカミュの『異邦人』ではなく『ペスト』を意識した場面でしょう。『ペスト』には、リウーとタルーという二人の男が月夜に海水浴をする場面があります。*2『青い空のカミュ』体験版でも『ペスト』でも、固い絆で結ばれた同性同士が月夜に裸になり、水上で友情を確かめています。作中の同性同士にとって友情の証しであるスイミングには、愛し合う者同士が愛を確かめるために行う性行為をどこか連想させるものがあるなと私は思います。
 
『青い空のカミュ』の物語がこれからどのような形で『異邦人』の結末とリンクするのか、それともリンクしないのか(笑)…期待しております。次回は『青い空のカミュ』体験版と『ペスト』の関係についてもっと考察していきます。では~ノシ
 
〈関連記事〉

*1:カミュ(窪田啓作訳)『異邦人』、新潮文庫、一九五四、一五六頁を参照。ただし窪田訳の訳文は「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた」となっている。

*2:カミュ(宮崎嶺雄訳)『ペスト』、新潮文庫、一九六九、三八一~三八三頁を参照。

「仮面ライダー握手会」のトラウマすぎる思い出。

 唐突ですが、今回は5年くらいずっと私のトラウマになっていることについて話します…

私は昔仮面ライダー握手会」で惨劇(笑)を経験し、精神的ダメージを食らいました。

私は5年くらい前に、某美術館で開かれた「仮面ライダーアート展」という展覧会に行きました。
会場では石ノ森章太郎先生の漫画原稿や仮面ライダーの着ぐるみなどが展示されており、そこそこ見どころがありました。

f:id:amaikahlua:20190301104337j:plain

ついでに、仮面ライダーフォーゼとの握手会」も行われていました。
仮面ライダーフォーゼの着ぐるみ(着ぐるみの中にはおそらくバイトの人かなんかが入っているのでしょう)と握手できるコーナーが設けられていました。
「握手会には年齢制限がないし、展覧会に行ったついでにちょっとした思い出が作れそうだから、俺も仮面ライダーと握手して帰ろっかな~♪」
といった程度の適当な気分で、私も仮面ライダーフォーゼと握手することにしました。
 
握手会の列に並んだ私は、列に並んでいるのが子供や親子連ればっかりであることに気付きました。
今思えば、私はこの時点で機転を利かせて…というか場の空気を読んで、
この握手会には俺のような独身の大人のお友達が参加するべきではない」
と判断し、すぐに引き返すべきだったのです。
ここが私の最大の判断ミスでした。
 
あと、私が
仮面ライダーフォーゼの中の人のサービス精神を期待したこと」
も、判断ミスだったのかもしれません。
いや、だって常識的に考えて握手会ではどんな相手にも笑顔で握手するのが礼儀じゃないですか

f:id:amaikahlua:20190301104735j:plain

例えばアイドルの握手会には気持ち悪いヲタクや薄汚いオッサンや怖そうなヤンキーが並んだりしますけど、アイドルの皆さんは笑顔で握手するじゃないですか?
私はいま接客業をやっていますが、どんなお客さんが来られても感じのいい接客をするよう心がけていますし、それが社会人として当然の態度でしょう。
しかし、前回の記事で申し上げたように、常識を信用することほど危険なことはありません!
私は仮面ライダーフォーゼ(の中の人)に忌み嫌われたのです…
 
握手する番が回ってきた私は、目の前にいる仮面ライダーフォーゼに右手を差し出しました。
すると仮面ライダーフォーゼは、なんと私のことを嫌がるジェスチャーをしました。
文章力がないので文章で上手く描写できないのですが、言葉を発さない着ぐるみの仮面ライダーフォーゼは、明らかに私のことを嫌がるジェスチャーをしました(大事なことなので二回言いました)。
そして仮面ライダーフォーゼはすごく嫌そうに手を差し出し、汚いものをつまむような感じで私の手をちょっと握っただけですぐ離しました。
仮面ライダーフォーゼは私の手をちょっと握っただけですが、握られたときの感触から仮面ライダーフォーゼの中の人の私に対するものすごい嫌悪感」が私の全身に伝わりました。
私はこのときまでの人生でここまで露骨に相手に嫌がられたことがなかったので、トラウマになるレベルの精神的ダメージを受けました。
あまり他人に嫌われない人生を送ってきたせいで、相手の好意を期待しすぎたなと思いました。
仮面ライダーフォーゼに嫌々握手をされたときの(たぶんお互いにとって)不快な感触は、今でも私の右手にはっきりと残っています。
 
私はXX歳のとき、父親の部屋に侵入して父親が愛読しているエロ漫画を読んだことがあります。
そのエロ漫画は、美女が病院で変態の医者に身体中を触られまくるという内容の漫画でした。
ちなみにそのエロ漫画は絵のクオリティがめっちゃ高かったです)
最後に美女の彼氏が助けに来て、美女は救出されます。
そのとき、美女は彼氏にこう言いました…
「助けて!あの医者に触られたときの感触が身体中に残っているの!!!」
私はこのセリフを読んで、
「HAHAHA☆大げさだなあ!いくら嫌いな男に触られたからといって、感触が身体に残るわけないだろ~♪」
と思ったものです。
しかし、仮面ライダーフォーゼに嫌々握手をされたときの感触が今でも右手から消えないので、トラウマになった接触はいつまでも身体に残るもんなんだな…と思います。
「助けて!仮面ライダーフォーゼに嫌々触られたときの感触が右手に残っているの!!!」
 
結論:トラウマになる可能性があるから、大人のお友達は仮面ライダーの握手会に参加しないほうがいいぞ。
 
~終~

カミュ『異邦人』の考察~母への愛情編~

f:id:amaikahlua:20190208182315j:plain

『異邦人』
アルベール・カミュ(窪田啓作訳)
1954年初版発行
 
今回は、前回に引き続きカミュの小説『異邦人』の考察です。強烈な性格の持ち主である主人公・ムルソーが母親に対して抱いた愛情を考察してみます。
 

不可解な言動をする男

 
『異邦人』の物語は、次のような冒頭の文言から始まります。この小説、冒頭からいきなり度肝を抜かされますねw
 

 きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。(p.6)

 
ムルソーは、母親が死んでも、母親がいつ死んだのかをちゃんと記憶していません。この文言だけを読むと、「ムルソーは母親の死をどうでもいいと思っているのだろうか?」と疑ってみたくなりますよね。しかし次のページでは、ムルソーは母親の死体置場に赴きながらこう思っています。
 
 養老院は村から二キロのところにある。私はその道を歩いた。すぐにママンに会いたいと思ったが、門衛は院長に会わなければならない、といった。(p.7)
 
上述の引用箇所の「すぐにママンに会いたいと思った」という表現が、私の心にはものすごくひっかかりました。母親の遺体が安置されている死体置場にすぐ行きたいという気持ちが、ムルソーにはちゃんとあるみたいなんですね。冒頭の文章からムルソーには母親に対する関心がないものと予想していた私にとっては、これは意外でした。
 
しかしムルソーは死体置場に着いても死んだ母親の顔を見ようとしなかったし(p.11)、母親が死んでも終始涙を流さず冷静だったし、母親の死の翌日に海水浴に行きました(p.26)。
 

常識に従わず母を愛した男

 
いったい、ムルソーは母親の死に対して驚くほど冷淡に思える反応を示したのに、なぜすぐに死んだ母親に会いたいと思ったのでしょうか?カミュ本人の言葉をヒントにして考えてみましょう。
 

   f:id:amaikahlua:20190215214206j:plain

ムールソオが母親の顔を見たくないという、これはムールソオが死人の顔を見て、けつ別するというような、一つの社会の常識ないし主観に従う必要を自分に感じないからで、また自分の感じた以外のことは言いもせず、やりもしないからで、それだからと言ってムールソオがそれ程母を愛していない、とは言えない。彼は彼なりに、彼の思うように、自由にその母を愛している。ところが人間社会では、その習慣に従わないものは危険視され、ついには社会の名において公然と殺されるのです。*1
 
この発言から、ムルソー「自分の感情に忠実で、社会が彼に期待するのとは違ったやり方で母親を愛した男」であることが読み取れますよね。ムルソーは母親の死体置場に赴くとき、愛する母親にすぐ会いたいという感情や衝動に忠実に従ったのだと思います。ムルソーには母親を愛する心があったのですが、「母親が死んだら母親の死顔を見て泣く。葬式の後には遊びに出掛ける気にはなれない」という社会の常識に、ムルソーは適応しなかったのです。
 
ムルソーの行動〉だけを見て常識的に判断すると、ムルソーは母親の死に対して異常なほど冷淡だと思えます。しかし、〈ムルソーの心情〉をしっかり読むと、ムルソーは母親をちゃんと愛しているということが読み取れます。例えば、ムルソーは予審判事に次のように言っています。
 
(中略)彼(※注:予審判事です)はなお二、三の質問をしたいと言った。引き続き同じ調子で、母を愛していたか、と彼は私に尋ねた。「そうです。世間のひとと同じように」と私は答えた。(p.86)
 

常識に裁かれた男

 
ムルソーは、一般大多数の人々と同じように、母親を愛していました。でもムルソーは、常識人が期待するような態度でその愛を示さなかったのです。ムルソーが殺人の罪で裁判にかけられたとき、検事は一見すると冷淡に見えるムルソーの行動を非難しました。
 
陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」(p.120)
 
『異邦人』の裁判の場面を読んでいると、私はニトロプラスエロゲー沙耶の唄』(またかよw)のとある会話を思い浮かべます。『沙耶の唄』で凉子は、常識人の耕司にこう語っています。
 

f:id:amaikahlua:20190215214614j:plain

「なあ戸尾くん。君は警察の仕事についてひどく勘違いしてる。彼らの職分は正義を貫くことでも、市民の安全を守ることでもない」
「そ、そんな」
「不条理な物事について、きちんと条理に沿った体裁を整えるーこれが警察っていう役所の仕事だ。彼らの思考はいつだって、より理解しやすい方、より説明しやすい方に傾いていく。それこそ水が低い方へ低い方へと流れていくように。
 事実がどうあろうと彼らには興味ない。彼らが関知するところではないんだよ。小説より奇なる事実、なんてものは」
 
上述の会話に出てくる警察は、『異邦人』の検事にかなり近い集団だと私は考えています。『異邦人』の検事も『沙耶の唄』の凉子がいう警察も、不条理な事件を常識的に回収しようとするだけで、事件の本質を見ていません。
 
『異邦人』の検事は〈ムルソーの心情〉を十分に理解せず、常識や習慣に従わない〈ムルソーの行動〉を槍玉にあげてムルソーを審問しました。ムルソーは正義によって裁かれたというよりは、常識によって裁かれたというべきだ。私はそう思っています。最後に、芥川龍之介箴言を引用して筆を置くことにしましょう。
 
危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
                      ―芥川龍之介侏儒の言葉
 
〈関連記事〉
私立さくらんぼ小学校エロゲー『少女と世界とお菓子の剣~Route of ICHIGO 1~』では、事件の形式だけを追求していて事件の関係者の心をないがしろにしている推理小説が批判されている。

*1:三野博司『〈増補改訂版〉カミュ「異邦人」を読む』、彩流社二〇一一、一八六頁。