『異邦人』
アルベール・カミュ(窪田啓作訳)
1954年初版発行
不可解な言動をする男
『異邦人』の物語は、次のような冒頭の文言から始まります。 この小説、冒頭からいきなり度肝を抜かされますねw
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、
私にはわからない。(p.6)
ムルソーは、母親が死んでも、 母親がいつ死んだのかをちゃんと記憶していません。 この文言だけを読むと、「 ムルソーは母親の死をどうでもいいと思っているのだろうか?」 と疑ってみたくなりますよね。しかし次のページでは、 ムルソーは母親の死体置場に赴きながらこう思っています。
養老院は村から二キロのところにある。私はその道を歩いた。すぐにママンに会いたいと思ったが、 門衛は院長に会わなければならない、といった。(p.7)
上述の引用箇所の「すぐにママンに会いたいと思った」 という表現が、私の心にはものすごくひっかかりました。 母親の遺体が安置されている死体置場にすぐ行きたいという気持ち が、ムルソーにはちゃんとあるみたいなんですね。 冒頭の文章からムルソーには母親に対する関心がないものと予想し ていた私にとっては、これは意外でした。
常識に従わず母を愛した男
ムールソオが母親の顔を見たくないという、これはムールソオが死人の顔を見て、けつ別するというような、 一つの社会の常識ないし主観に従う必要を自分に感じないからで、 また自分の感じた以外のことは言いもせず、やりもしないからで、 それだからと言ってムールソオがそれ程母を愛していない、 とは言えない。彼は彼なりに、彼の思うように、 自由にその母を愛している。ところが人間社会では、 その習慣に従わないものは危険視され、 ついには社会の名において公然と殺されるのです。*1
この発言から、ムルソーが「自分の感情に忠実で、 社会が彼に期待するのとは違ったやり方で母親を愛した男」 であることが読み取れますよね。 ムルソーは母親の死体置場に赴くとき、 愛する母親にすぐ会いたいという感情や衝動に忠実に従ったのだと 思います。ムルソーには母親を愛する心があったのですが、「母親が死んだら母親の死顔を見て泣く。 葬式の後には遊びに出掛ける気にはなれない」 という社会の常識に、ムルソーは適応しなかったのです。
〈ムルソーの行動〉だけを見て常識的に判断すると、 ムルソーは母親の死に対して異常なほど冷淡だと思えます。 しかし、〈ムルソーの心情〉をしっかり読むと、 ムルソーは母親をちゃんと愛しているということが読み取れます。 例えば、ムルソーは予審判事に次のように言っています。
(中略)彼(※注:予審判事です)はなお二、三の質問をしたいと言った。引き続き同じ調子で、 母を愛していたか、と彼は私に尋ねた。「そうです。 世間のひとと同じように」と私は答えた。(p.86)
常識に裁かれた男
ムルソーは、一般大多数の人々と同じように、 母親を愛していました。でもムルソーは、 常識人が期待するような態度でその愛を示さなかったのです。 ムルソーが殺人の罪で裁判にかけられたとき、 検事は一見すると冷淡に見えるムルソーの行動を非難しました。
「なあ戸尾くん。君は警察の仕事についてひどく勘違いしてる。彼らの職分は正義を貫くことでも、 市民の安全を守ることでもない」 「そ、そんな」「不条理な物事について、きちんと条理に沿った体裁を整えるーこれが警察っていう役所の仕 事だ。彼らの思考はいつだって、より理解しやすい方、 より説明しやすい方に傾いていく。 それこそ水が低い方へ低い方へと流れていくように。 事実がどうあろうと彼らには興味ない。彼らが関知するところではないんだよ。小説より奇なる事実、 なんてものは」
上述の会話に出てくる警察は、『異邦人』の検事にかなり近い集団だと私は考えています。『異邦人』の検事も『 沙耶の唄』の凉子がいう警察も、 不条理な事件を常識的に回収しようとするだけで、事件の本質を見ていません。
『異邦人』の検事は〈ムルソーの心情〉を十分に理解せず、 常識や習慣に従わない〈ムルソーの行動〉 を槍玉にあげてムルソーを審問しました。 ムルソーは正義によって裁かれたというよりは、 常識によって裁かれたというべきだ。私はそう思っています。最後に、 芥川龍之介の箴言を引用して筆を置くことにしましょう。
危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
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