"Harry Potter and the Philosopher's Stone"を『ハリー・ポッターと賢者の石』と訳しちゃっていいの??
私は今年から、英語の勉強にハマっている。「『ハリー・ポッター』シリーズは英語学習に役立つ」という噂がネットに書いてあったので、私は試しに『ハリー・ポッターと賢者の石』を英語音声英語字幕の映画で鑑賞してみた。ついでに英語版の原作小説も読んだ。
哲学は錬金術の源流
『ハリー・ポッターと賢者の石』は、英語版小説と映画では"Harry Potter and the Philosopher's Stone"という題名である。
philosopher(フィロソファー)という英単語には、確かに「賢者」という意味がある。しかしphilosopherという単語は、多くの場合「哲学者」と訳される。なので"Harry Potter and the Philosopher's Stone"という原題は、素直に考えて『ハリー・ポッターと哲学者の石』と訳したら良さそうな感じがする。なのに邦題は『哲学者の石』ではなく『賢者の石』と訳されている……
一体、どういうことだってばよ???
私がネットで調べたところ、『ハリー・ポッター』の作中にも出てくる錬金術思想は、プラトンやアリストテレスなどの哲学が源流になっているらしい。そして中世になると、イスラム世界の術師やヨーロッパの聖職者らにも錬金術思想が受け継がれたという。つまり錬金術思想の芽を大昔に生やしたのは「哲学者」だったのだが、その思想は時を経るにつれて「哲学者以外の賢者」によっても開拓されたということだ。
以上の歴史を踏まえると、"Harry Potter and the Philosopher's Stone"という原題を『ハリー・ポッターと賢者の石』と訳すべきか『ハリー・ポッターと哲学者の石』と訳すべきか、悩ましいところだと思う。錬金術が次第に哲学者以外の賢者に継承されたという史実を重んじるならば、邦題は『賢者の石』と訳したい。しかし、錬金術の源流が哲学だという史実を重んじるならば、『哲学者の石』という邦題に改訳したほうが良くね?と思える。
今のところ私は、『ハリー・ポッターと賢者の石』という邦題を支持しておらず、この作品の邦題は『ハリー・ポッターと哲学者の石』と訳したほうが良いと強く思っている。
なぜならこの作品からは、哲学的な機知が感じられるからだ。
「フクロウ」と「ミネルバ」
映画版"Harry Potter and the Philosopher's Stone"は、出だしからして哲学へのリスペクトが感じられる。この映画の冒頭では、Privet Drive(プリベット通り)の看板に留まっていたフクロウが、暗闇に向かって羽ばたいていく。そしてホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長とミネルバ・マクゴナガル先生が会話をする。「フクロウ」と「ミネルバ」と言えば……
おそらく、この映画の冒頭の場面の元ネタは「ミネルバのフクロウは夕暮れに飛び立つ」というヘーゲルの名言だと考えられる。
ヘーゲル(1770~1831)
なお、世界がいかにあるべきであるかの教訓を語ることについていえば、そもそも哲学はつねに到来が遅すぎるのである。(中略)哲学がみずからの灰色を灰色で描くとき、生の形態はすっかり古びたものになってしまっているのであり、灰色に灰色を重ねてみてもその形態は若返らず、単に認識されるにすぎない。ミネルヴァの梟は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛びはじめるのである。*1
フクロウは、知恵の女神ミネルバの象徴である。哲学が時代の終わりにその時代の精神を総括する形で登場するということと、フクロウが夜になると活動するということを、ヘーゲルは重ね合わせているわけだ。この映画の冒頭はヘーゲルの名言を匂わせることにより、これから哲学的な物語が始まりますよと視聴者に伝えているように思える。
Bloomsbury社刊の原作小説"Harry Potter and the Philosopher's Stone"の巻末には、「ミネルバ・マクゴナガル先生の名前の由来は知恵の女神ミネルバだ」ってご親切に書いてあった。このことを酌量するとかなりの確率で、映画版の出だしはヘーゲルを意識していると言えそう。ちなみに原作小説の冒頭ではフクロウが日中から飛んでいるので、冒頭でフクロウを夜に飛ばして哲学を暗示させるというのは映画版スタッフのアイデアだろうね。
強欲な人間は「賢者」や「哲学者」の名に値しない
闇の帝王・ヴォルデモートは、philosopher's stone(賢者の石、または哲学者の石)をハリーから奪おうとした。石の力を利用すれば不老不死の秘薬エリクサーを作れるので、ヴォルデモートは奪った石の力で復活しようとしたのだ。
ヴォルデモートは、弱肉強食思想の持ち主であった。そしてこの"Harry Potter and the Philosopher's Stone"という作品は、ヴォルデモートを敵役として描くことにより、弱肉強食思想を批判していると解釈できる。
ヴォルデモート"There is no good and evil. There is only power and those too weak to seek it."
訳:善と悪は存在しない。あるのは力と、力を求めるには弱すぎる者だけだ。
ヴォルデモートは「善と悪は存在しない。」と語った。この発言はおそらく、いわゆる「自然状態」を意識していると思われる。法律や道徳は人間が創造した一種の虚構であり、自然状態では善悪の区別は線引きされていない。弱者の上に強者が君臨する弱肉強食こそが、自然界の摂理である……とでもヴォルデモートは言いたいのだろう。何だかニーチェやカリクレスに似たような思想だが、こんな薄気味悪い野心家が食物連鎖の帝王になったらたまったものではない。
ヴォルデモートは結局、philosopher's stoneを手に入れることができなかった。なぜならダンブルドア校長が、前もって細工をしていたからである。philosopher's stoneを使いたいと思う者がその石を手に入れることができないように細工が施されていたので、石の力を利用して復活しようとしたヴォルデモートは、石を手に入れることができなかったのだ。
ダンブルドア"You see, only a person who wanted to find the Stone -find it but not use it- would be able to get it. That is one of my more brilliant ideas. And between you and me, that is saying something."
訳:分かるかい、その石のことを知りたいと思い、その石を見付けても使いたいと思わなかった者だけが、その石を手に入れることができるんだよ。これは私の最も素晴らしいアイデアの一つなんだ。そして君と私なら、言わんとすることが伝わるよね。*2
philosopher's stone(賢者の石、または哲学者の石)は、その石のことを知りたいと思い、その石を見付けても使いたいと思わなかった者に与えられる。おそらくダンブルドア校長は、石の力を利用して自分の野望を叶えようとするヴォルデモートのように欲深い奴は「賢者」や「哲学者」と呼ぶに値しないと言いたいのではないかと思う。だからヴォルデモートには、philosopher's stoneを手に入れる資格が無かったのだろう。
ハリーは石の力を利用したいと思わなかったので、philosopher's stoneを手に入れた。ダンブルドア校長は、石の力を利用しようとする欲が無くて利口なハリーのような人間こそが「賢者」や「哲学者」と呼ぶに相応しいと遠回しに言っているのだと思う。つまりphilosopher's stoneは、その名の通り「賢者」や「哲学者」に値する者をふるいにかけるための「試金石」だったのだろうと私は解釈している。
『ハリー・ポッターと哲学者の石』という邦題を推します
私は、“Harry Potter and the Philosopher's Stone”を『ハリー・ポッターと賢者の石』ではなく『ハリー・ポッターと哲学者の石』と訳したほうが良いと思っている。作中に出てくる錬金術は元々哲学が源流だし、映画版の冒頭にはヘーゲルのオマージュが含まれていると考えられるし、ラストのオチにも哲学的な機知が感じられるからだ。この作品は弱肉強食思想を語るヴォルデモートを批判的に描き、さらに彼のように強欲な人間は「賢者」や「哲学者」に値しないと語っていると思う。
私は、この作品の題名が『ハリー・ポッターと哲学者の石』と訳されなかったことが残念でならない。この作品の題名が『賢者の石』と訳されているせいで、日本では作中の哲学的な含みが看過され過小評価されているように思う。