かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『幻影の覇者ゾロアーク』批評~映像は映像を語る~

幻影の覇者ゾロアーク(以下『幻影の覇者』)は、ポケモン映画第13作品です。端的に言って、この映画は傑作だと思う。この作品は映画という映像メディアであり、尚且つ映像倫理について考えさせられる物語でもあります。幻影の覇者』は、言わば「映像について表現した映像」なんです。

ポケモン映画第1作『ミュウツーの逆襲』はクローンという複製技術を描いた作品でしたが、『幻影の覇者は映像という複製技術を描いた作品です。映像はDVDやブルーレイ等に複製できるし、SNSでは人気のある映像が拡散され複製される。映像は、クローンとはまた違った意味合いで複製技術なんですよね。
 

f:id:amaikahlua:20211119180329p:plain

監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)2010 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★★(「映像」というテーマを見事に描いた映像作品)
 

f:id:amaikahlua:20211119180428p:plain

幻影の覇者』には、ゾロアークゾロアという母子のポケモンが登場します。ゾロアーク母子は、「イリュージョン」という特性を持ちます。ゾロアーク母子は特性によって幻影を操り、他のポケモンや人間に化けることができます。また、ゾロアーク母子は他のポケモンの技のエフェクトを再現したり、固有結界のように大規模な幻を見せることもできます。幻影の覇者』という題名の通り、ゾロアーク母子は幻影という「映像」を自在に操るわけです。
 

f:id:amaikahlua:20211119180505p:plain

幻影の覇者』に登場する悪役は、コーダイです。コーダイは善人を装った悪人であり、メディアを操作する権力を持った巨大企業「コーダイネットワーク」の社長です。コーダイはゾロアークを騙し、ゾロアークが作る幻影を悪用します。さらにコーダイはCGでねつ造した映像を放送し、クラウンシティの住人を混乱させ退避させます。コーダイは映像を巧みに操る頭脳犯で、こういう脳筋じゃない悪役は好きですね。
 

f:id:amaikahlua:20211119180535p:plain

ゾロアークの幻影を悪用でき、加えて映像メディアをコントロールできる」という時点でコーダイは結構なチート能力の持ち主なのですが、彼にはさらなる能力があります。コーダイは「ビジョン」により、未来で発生する出来事を「見る」ことができます。コーダイは幻のポケモンセレビィから「時の波紋」のエネルギーを横取りし、未来予知ができるようになったのです。コーダイは映像を自分の思い通りに編集できるだけでなく、未来の出来事をビジョンという「映像」として見ることができるんですね。
 

f:id:amaikahlua:20211119180622p:plain

コーダイは自分の思い通りの未来をクリエイトすることができるのですが、サトシ達は「みんなの力で未来を変える」ことを決意します。『幻影の覇者』の前作『アルセウス 超克の時空へ』では、過去を改変することによって世界の破局が阻止されました。『幻影の覇者』では、未来に訪れる破局を今からの努力で阻止するという、至極ヒロイックな奮闘が描かれています。アルセウス 超克の時空へ』は「過去を変えることによって世界を救う」話で、それに続く『幻影の覇者』は「未来を変えることによって世界を救う」話になっているのね。
 

f:id:amaikahlua:20211119180659p:plain

コーダイは未来視によって理想の未来を手に入れられるかと思ったのですが、結局サトシ達に敗北しました。これはサトシ達の頑張りにより、コーダイが予知した未来が書き換えられたからというのが大きいでしょう。また、コーダイがビジョンによって見た映像が断片的に切り取られたもので、未来の全体を投影したものではなかったという点も指摘しておきたい。ともかくコーダイは映像を支配するメディア強者だったのですが、自分が見たビジョンという映像に裏切られたのです。映像で暴利を貪っていた悪役が映像に裏切られて敗北する」というのは、皮肉が利いていて良いオチですね。
 

f:id:amaikahlua:20211119180750p:plain

また、コーダイの悪事はジャーナリストのリオカとクルトによって録画されており、「映像」として世間に報道されることになりました。この映画では映像を悪用した犯罪や裏切りが繰り返されましたが、最後になって「映像を活用して真相を報道し、悪を懲らしめる」という善的なメディアの使い方が提示されるのです。ジャーナリズムには厭らしいイメージが付きまといますが、ジャーナリズムは真実を複製して社会を是正することがある程度できると思うんだよな。
 
テン年代の中盤ぐらいから、アニメや映画のような映像を作る楽しさや情熱を描いたアニメをよく見かけるようになったと感じます。でも、映像は暴力的に悪用できる複製技術であり、映像を発信する者には相応の倫理観が求められるでしょう。幻影の覇者』はテン年代初頭の2010年に作られた映画ですが、映像を発信する者の快楽や情熱ではなくモラルを主題化しているところが今観ても斬新だと思いました。俺はね?

『ポケットモンスター ココ』批評~野生児は未来を目指す~

ポケットモンスター ココ』(以下『ココ』)は、ポケモン映画第23作品です。この映画は「野生児と野生ポケモンの共存」という異色のシチュエーションで始まります。ですが、話が進むにつれて自然環境を破壊する悪役が現れ、従来のポケモン映画でも見たことがあるような展開になります。さらに、この映画は冨岡脚本ポケモン映画の遺伝子を正統に継承した作品だと思います。『ココ』は異色作と見せかけて、過去の伝統をしっかり踏襲した映画だと私は考えています。
 

f:id:amaikahlua:20211113203930p:plain

監督:矢嶋哲生
(C)2020 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★☆(異色作と見せかけて、実は伝統を踏襲した作品だと思う)
 

ボルケニオン』のその先へ

f:id:amaikahlua:20211113204041p:plain

この映画の主役は、ジャングルでポケモンに育てられた野生児・ココです。これまでのポケモン映画では「人間が建設した都市で人間と共存するポケモンはけっこう描かれてきましたが、「野生ポケモンの縄張りでポケモンと共存する人間」というパターンは開拓されてきませんでした。『ココ』のジャングルを見ればわかるように、野生ポケモンの中には強い縄張り意識が遍在するので、人間が野生ポケモンと共存するのはとても難しいことです。しかしココは赤ん坊の頃から幻のポケモン・ザルードに育てられ、多くの野生ポケモンと共存してきたのでした。
 
ココは森で発生した事故によって両親を失い、代わりに父性溢れるザルードの愛情を注がれて育ちます。父ちゃんザルードはココに人間の社会を教えず、ココを人間ではなくポケモンのように扱っていました。これはかなり確信を持って言えることなのですが、この映画の父ちゃんザルードは、『ボルケニオンと機巧のマギアナに登場したボルケニオンの後継者だと思います。脚本家の冨岡さんは『ボルケニオンと機巧のマギアナボルケニオンという〈父親〉を描き、その〈父親〉のイメージを父ちゃんザルードに継承させていると感じました。
 
ボルケニオンはネーベル高原のポケモンを世話する〈父親〉的存在でしたが、父ちゃんザルードもココを献身的に保育する父親〉的存在です。ボルケニオンは映画のラストで人間であるサトシ達を「ネーベル高原名誉ポケモン」だとみなし、野生ポケモンの仲間として認めました。そのボルケニオンの意志を受け継ぐかのように、父ちゃんザルードは映画の冒頭で人間であるココを野生ポケモンように扱い育てるのです。ちなみに、ボルケニオンの声優は市川染五郎さんで、父ちゃんザルードの声優は中村勘九郎さん。声優が歌舞伎役者なのも共通していますね。
 
おそらく脚本家の冨岡さんはボルケニオンの要素を父ちゃんザルードに継承させ、『ココ』で『ボルケニオンと機巧のマギアナ』の「その先」のテーマを追求しているのだと思います。ボルケニオンと機巧のマギアナ』は「人間が野生ポケモンの仲間として認められる過程」を描いていて、さらに『ココ』は「野生ポケモンの仲間として育てられた人間が目指す未来」を描いた映画だと思いますね。
 
(この先は映画の重大なネタバレが含まれています)

『ビクティニと白き英雄レシラム』批評~現実という大地を生きろ~

ビクティニと白き英雄レシラム』(以下『白き英雄』)は、ポケモン映画第14作品です。この映画では「海」と「空」と「大地」に象徴的な意味が付与されていると思いました。なお、ビクティニと白き英雄レシラム』は『ビクティニと黒き英雄ゼクロム』と同日公開された作品で、両者は内容が一部異なります。本当は『白き英雄』と『黒き英雄』の違いについて考察した方が良いのかもしれませんが、私にはそこまで考察するガッツがありませぬ…。『白き英雄』の批評だけで許してクレメンス。

 

f:id:amaikahlua:20211107140817p:plain

ビクティニと白き英雄レシラム』
監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)2011 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★☆思想を海と空と大地に投影する脚本が素晴らしい)
 

「正義VS正義」の戦い

f:id:amaikahlua:20211107140909p:plain

『白き英雄』には、伝説のポケモンレシラムとゼクロムが登場します。レシラムとゼクロムは、1000年以上昔に「大地の民の国」の戦争に加担したポケモンです。大地の民の国には、「真実の勇者」と「理想の勇者」と呼ばれる双子の王子が存在しました。レシラムは真実の勇者に、ゼクロムは理想の勇者に味方しました。やがて国の行方を巡って、「レシラムと真実の勇者VSゼクロムと理想の勇者」の戦争が勃発します。ここで重要なのは、双子の王子はそれぞれ、知恵と勇気を兼ね備えた立派な男だったということです。双子の王子は相反する正義を持っていて、正義と正義がぶつかり合うことによって、戦争が起きたのです。
 
レシラムとゼクロムは長い間封印されていましたが、悠久の時を経て現代に復活します。『白き英雄』ではレシラムがサトシの味方になり、ゼクロムがドレッドという青年の味方になります。ドレッドは大地の民の末裔で、大昔の「理想の勇者」のように崇高な理想を持っていました。ドレッドはゼクロムの力を借りて大地の民の国を再建しようとしますが、ドレッドの理想は暴走します。サトシはレシラムの力を借り、ドレッドの暴走を阻止します。
 

f:id:amaikahlua:20211107141012p:plain

ドレッドは「行き過ぎた理想を持った男」として描かれており、彼に悪意はありません。『白き英雄』では正義の反対は別の正義、サトシの正義がドレッドの正義に戦いを挑みます。セレビィ 時を超えた遭遇』『ボルケニオンと機巧のマギアナ』のような「善VS悪の戦い」ではなく、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』『キュレムVS聖剣士ケルディオのような悪役不在の冒険譚とも異なる。『白き英雄』では、純粋な正義漢同士の対決が長大な時を経て反復されるのです。
 

テン年代の想像力

f:id:amaikahlua:20211107141100p:plain

幻のポケモンビクティニは1000年以上前、大地の民の国王に力を貸しました。国王はビクティニの力を集約させるために、城の周りに結界を張りました。ビクティニは1000年以上もの間、結界の外に出られずに暮らしていました。国王が決めた限界に内包されたビクティニを不憫に思ったサトシはビクティニを結界から脱出させ、ビクティニに海を見せようと約束します。私は『進撃の巨人にあまり詳しくありませんが、ビクティニのくだりが何となく進撃の巨人っぽいなと思いました。
 
私が観察した限り、テン年代のフィクションは「限界に包囲された空間」を描いた名作が多いと思います。2013年にアニメ化された『進撃の巨人では城壁に包囲された区域で生活する人類が描かれましたし、2016年にジャンプで連載が始まった『約束のネバーランドでは「GFハウス」という孤児院に密閉された子供たちが描かれました。2012年に発売された『レイトン教授VS逆転裁判』でも、レイトン教授たちが壁に包囲されたラビリンスシティに取り込まれます。そしてビクティニが結界に包囲された『白き英雄』は、2011年の作品ですね。いったいなぜ、テン年代は「限界に包囲された空間」を描いた名作が多かったのだろうか。
 
テン年代の初頭である2011年に、宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』という現代社会論を書きました。宇野は、グローバル化/ネットワーク化によって世界は外部を失い、「いま・ここ」の内部だけが存在するようになったことを指摘しています。そして川上弘美は宇野の説に同意して「全体像が機能しなくなった」と語り、2018年には限界に包囲された世界の存在を否定する『なぜ世界は存在しないのか』とかいう哲学書の和訳が出ました。つまりテン年代は、「世界の限界や輪郭」の存在が疑われた時代だったのではないでしょうか。その影響で、空間を包囲する限界や輪郭を強く意識したフィクションが生まれたと私は考えているのですが、考えすぎかな。
 

f:id:amaikahlua:20211107141256p:plain

ちなみに、サトシがビクティニに見せた海は、国王が定めた限界を突破した大地の先にあるものです。白き英雄』の海は「限界の向こう側にある豊かな可能性」の象徴だというのが私の解釈です。
 

理想の空、現実の大地

f:id:amaikahlua:20211107141343p:plain

崇高な理想を持つドレッドは大地の民の国の再建を目指しましたが、その理想が裏目に出て竜脈のエネルギーに異常が発生します。そして「大地の剣の城」は空高く飛翔し、地面からどんどん離れていきます。大地の剣の城が大気圏を突破(?)し、宇宙に脱出したのには唖然としました。いくら何でもここまでやるかって思った(笑)。サトシたちは宙に浮かぶ城に閉じ込められますが、ビクティニたちの頑張りによって城は再び大地に刺さります。
 
『白き英雄』では空が理想の象徴であり、宙に浮かぶことが理想を掲げることを意味していると思いました。高すぎるドレッドの意識が現実から乖離していく様子が、地上から遠ざかっていく天空の城に託されていると思いました。その一方で『白き英雄』では大地が現実の象徴であり、大地に立つことが現実から離れずに生きることを意味していると思いました。ドレッドの理想が竜脈エネルギーの暴走を招いたように、現実離れした理想は現実の反発を買う恐れがあると思います。
 
宙に浮かんだ城の中でサトシたちが死にそうになったことも示唆する通り、理想が高すぎると私たちは現実を生きられない。私たちには、現実という大地が必要です。皆さん、大地を見捨てずに生きましょう。
 

f:id:amaikahlua:20211107141425p:plain

コジロウ「地上についてる」
ムサシ「飛んでない」
ニャース大地って最高ニャ!