かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『ポケットモンスター みんなの物語』批評~2つのアンサー~

ポケットモンスター みんなの物語』(以下『みんなの物語』)は、ポケモン映画第21作品です。『みんなの物語』では、フウラシティという街で6人の個性的な主役が活躍します。ラルゴ、リサ、トリト、カガチ、ヒスイ、そして相変わらずの主人公サトシ。この映画は、複数の主役それぞれに見せ場がある群像劇です。

 

f:id:amaikahlua:20211031143856p:plain

ポケットモンスター みんなの物語』
監督:矢嶋哲生
脚本:梅原英司、高羽彩
(C)2018 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★☆(この映画は前作、前々作へのアンサーフィルムかもしれない)
 

『キミにきめた!』へのアンサー:〈個〉から〈みんな〉へ

f:id:amaikahlua:20211031144016p:plain

さて、『みんなの物語』を観て「この映画は『キミにきめた!』と何となくテーマが繋がっている気がする…」と思ったのは私だけではないと思います。『キミにきめた!』ポケモン映画第20作品で、『みんなの物語』の前作に当たります。とは言え『みんなの物語』と『キミにきめた!』は制作スタッフが大きく異なりますし、『みんなの物語』は『キミにきめた!』の後日談ではありません。しかし『みんなの物語』を観ていると、この映画は何となく前作『キミにきめた!』へのアンサーフィルムであるように思われるのです。
 
思うに、『キミにきめた!』は「特定の〈個〉」に焦点を当てた映画である一方、『みんなの物語』は「幅広い〈みんな〉」を照らし出す映画でしょう。『キミにきめた!』ではサトシがピカチュウという〈個体〉を相棒に選び、ホウオウという〈個体〉に会いに行き、サトシという〈個人〉が虹の勇者に選ばれる物語でした。そもそも『キミにきめた!』という題名自体が、映画の方向性をよく表していると思います。「キミにきめた!」という言葉は、「キミ」という特定の〈個〉を選別するための宣言に他なりません。
 

f:id:amaikahlua:20211031144516p:plain

一方『みんなの物語』では特定の〈個〉を選別する力学があまり発生しておらず、幅広い人間やポケモンみんな〉を照らし出す内容になっています。『キミにきめた!』では、ホウオウに選ばれた例外的な主人公として、サトシの立場が特別視されていました。かたや『みんなの物語』ではサトシ以外の5人の主役が大活躍しており、サトシの立場が相対化されています。『キミにきめた!』では厳しい〈個〉の選別が行われ、『みんなの物語』ではできるだけ〈みんな〉が活躍する。『キミにきめた!』から『みんなの物語』の間では、〈個〉から〈みんな〉への移行が発生していると私は思うのです。
 

f:id:amaikahlua:20211031144809p:plain

また、『キミにきめた!』にはホウオウが登場し、『みんなの物語』にはルギアが登場することも、この二作を姉妹品のように見せていると思います。ホウオウはポケモン金のパッケージを飾ったポケモンで、ルギアはポケモン銀のパッケージを飾ったポケモンです。ホウオウとルギアはゲームでは金と銀、姉妹品の関係にあります。そして、『キミにきめた!』のホウオウはサトシという〈個人〉を虹の勇者として選別しましたが、『みんなの物語』のルギアは街中の人間やポケモン〈みんな〉に風を送りました。*1そのため映画におけるホウオウとルギアの間でも、〈個〉を重視するか〈みんな〉を重視するかの違いが発生していると感じました。
 

『機巧のマギアナ』へのアンサー:ウソつきの社会貢献

私が観た限り、『みんなの物語』では「ウソつき」に関する描写が妙に多いなと思いました。この映画ではウソをつくことの悪さが一応描かれつつ、ウソつきが社会の役に立つ様子も描かれています。
 

f:id:amaikahlua:20211031144952p:plain

『みんなの物語』には、主役の一人としてカガチというホラ吹き男が登場します。カガチは、とても興味深い人物です。カガチは作中でしょっちゅうウソをつくのですが、彼はウソをついて人々を悲しませたり絶望させたりしようとは思っていないように見えます。カガチにはリリィという姪がいて、彼はリリィに自分の良いところを見せようとしてウソをついているようにお見受けしました。カガチは詐欺師ではなく、お調子者や見栄っ張りが暴走した結果、ホラを吹いていると思いますね。
 
カガチの相棒になるポケモンは、ウソッキーです。カガチとウソッキーは両方ともウソつきであるため、作中でコンビを組むことになります。『みんなの物語』ではウソッキーの活躍が印象に残りやすく、映画放映当時はウソッキーをもてはやす意見が多く出た記憶があります。
 

f:id:amaikahlua:20211031145536p:plain

カガチ「ウソをやめるのは撤回だ。いくらでもウソついてやる!それで大切なものを守れんなら!
ウソッキー「ウッソ!ウ…」
カガチ「オレたちは最強だ!」
 

f:id:amaikahlua:20211031145636p:plain

『みんなの物語』ではカガチとウソッキーのウソつきコンビが活躍するのですが、それに加えてフウラシティの市長すらもウソをつきます。フウラシティの市長は先代から、山奥に住む幻のポケモンゼラオラを保護するために、「ゼラオラは死んだ」というウソをついてきたのです。人間の欲望からゼラオラを守るための手段として、市長はウソをつかざるを得ませんでした。市長は最終的にウソをつくのをやめますが、カガチとはまた違った「善意あるウソつき」でした。
 
市長が「ウソをやめた公人」である一方、カガチが「ウソをやめなかった私人」として対比されているのかもしれません。市長は「ウソをつくのは良くないからやめるべきだ」というタテマエを代弁していて、カガチとウソッキーは「何かを守るためならウソをついてもええやん」という公にしにくい倫理観を体現しているように思えるんだけど、違うのかな。
 
『みんなの物語』ではウソつきに関する言及が多く、ウソつきの活躍も描かれています。この妙な「ウソつき推し」は、一体何なのか。自信がありませんが、『みんなの物語』のウソつき推しは、ポケモン映画第19作『ボルケニオンと機巧のマギアナへのアンサーだと解釈できるかもしれません。『機巧のマギアナに登場するボルケニオンは、「ポケモンはウソをつかねえが、人間はウソをつくから信用ならねえ」という思想を持っていました。しかし『みんなの物語』を観れば、ポケモンの中にもウソッキーのようなウソつきが存在するし、ウソつきな人間の中にも善人が存在するから一概に悪いとは言えない」と応答できます。
 

結語

『みんなの物語』は主役が多いし論点も多い映画です。今回私がこの記事で主張したかったのは、「『みんなの物語』には前作と前々作へのアンサーが含まれているように思える」ということです。前作『キミにきめた!』では「〈個〉の選別」が描かれた一方、『みんなの物語』では「〈みんな〉の活躍」が描かれている。そして前々作『ボルケニオンと機巧のマギアナでは「ポケモンは正直者で人間はウソつきな悪人だ」という思想が軸になっていた一方、『みんなの物語』では「ウソつきなポケモンとホラ吹き男の社会貢献」が描かれている。『みんなの物語』の論点は無数にありますが、私が特に言いたいことは以上です。

*1:キミにきめた!』のホウオウもみんなに活力を与えましたが、ホウオウの主な存在意義は〈個〉の選別だと思います

『破壊の繭とディアンシー』批評~関係性のダイナミズム~

破壊の繭とディアンシー(以下『破壊の繭』)は、ポケモン映画第17作品です。『破壊の繭』は、長らくポケモン映画の脚本を務めてきた園田英樹さん最後の長編ポケモン映画です。結論から先に言うと、この映画は非常に優秀な群像劇で、園田さんは最後に凄く良い仕事をしたなあと思いました。
 

f:id:amaikahlua:20211024140710p:plain

監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)2014 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★★複雑な関係性を構築する脚本が非常に優れている)
 

超絶技巧のキャラ配置

この映画は、キャラ配置が凄いことになっています。端的に言うと、善玉と悪玉の戦いを描きつつ、善玉の内部における関係性の変化を描き、悪玉の内部における力関係の拮抗も描くという、凄い技が使われていると思いました。
 
・善玉サイド:「上下関係」から「水平関係」へ

f:id:amaikahlua:20211024140832p:plain

この映画の主役は、幻のポケモンディアンシーです。ディアンシーは口調や仕草、何より声優の松本まりかさんによる声がメチャメチャかわいいのです。ディアンシーは野生ポケモンが生息するダイヤモンド鉱国のお姫様なのですが、鉱国は存亡の危機に瀕していました。そこでディアンシーは伝説のポケモン・ゼルネアスに会いに行き、ゼルネアスから力を貰って鉱国を救うための旅に出ることになります。この映画は、ディアンシーの冒険と成長の物語です。
 
ディアンシーは旅の途中でサトシ一行に出会い、サトシ達の協力を得てゼルネアスを探しに行きます。この映画の良くできているところは、ディアンシーの冒険の一部始終を描いた作品なのに、サトシ達人間がふんだんに活躍しているところだと思います。この映画はダイヤモンド鉱国の衰退という野生ポケモンの内部事情を解決する作品なので、下手をするとポケモン主体で人間が活躍しづらい映画になる恐れがあったと思う。でも、ファンに酷評された『キュレムVS聖剣士ケルディオ』とは違って(笑)、この映画では人間がちゃんと活躍するんです。
 

f:id:amaikahlua:20211024141152p:plain

ディアンシーでは、わたくしは、みなさんがわたくしの友達になることを許します!
 
ディアンシーはお姫様なので、サトシ達が自分と一緒に旅をしたり、友達になったりすることを、いちいち「許します」と言います。ディアンシーはダイヤモンド鉱国の姫君であるだけでなく、サトシ達の行動を認可する主人も演じます。一方、サトシ達はディアンシーの手を引き、ディアンシーとの対等な友情関係を育みます。ディアンシーとサトシ達の間では、「主人と臣下」の上下関係を徐々に「友達同士」の水平関係にする力学が発生していると思います。
 
・悪玉サイド:拮抗する三組の悪党

f:id:amaikahlua:20211024141307p:plain

この映画に登場する悪役は、とても面白いです。この映画には、マリリン・フレイム、ニンジャ・ライオット、ティール父娘の三組の悪党が登場します。三組の悪党はそれぞれにディアンシーを捕獲しようと企んでいて、悪党の勢力が三国志みたいに拮抗しています。お馴染みのムサシ・コジロウ・ニャースも、もちろん登場します。しかしムサシ・コジロウ・ニャースは強力な三組の悪党の抗争に入り込めなくて、物語の追放領域に置かれています。
 

f:id:amaikahlua:20211024141413p:plain

さらに興味深いことに、三組の悪党が所有しているポケモンは、いわゆる「御三家」でタイプ相性が三すくみになっているんです。マリリンのポケモンはほのお・エスパータイプマフォクシーライオットのポケモンはみず・あくタイプのゲッコウガティールのポケモンはくさ・かくとうタイプブリガロン三組の悪党は力量が拮抗していて、さらに所有するポケモンの相性がジャンケンのように循環しているんです。で、それに添え物として(笑)ムサシ・コジロウ・ニャースが添えられているという構図が出来上がっているんですな
 
……では、ここまでの要点をまとめます。この映画では、ディアンシーとサトシ達が善玉サイドに配置され、三組の悪党とムサシ達が悪玉サイドに配置されています。善玉サイドと悪玉サイドは、当然のことながら対立しています。それに加えて、善玉サイドの内部ではディアンシーとサトシ達の間で上下関係が少しずつ水平化している。そして、悪玉サイドの内部では三組の悪党の力関係が拮抗していて、ムサシ達は添えるだけです。いやあ、これは凄い構図です。
 

高階の破壊と再生

f:id:amaikahlua:20211024141552p:plain

非常に手の込んだキャラ配置に成功している時点で、この映画は及第点の出来だと思います。しかしこの映画は、終盤になるとさらに凄いことになるんです。ディアンシーとサトシ達は「オルアースの森」を訪れますが、森の内部で善玉サイドと悪玉サイドが入り乱れる大混戦が勃発。勃発した大混戦によって眠りから目覚めた伝説のポケモンイベルタルは、ビームを発射してあらゆるものを石にしてしまいます。
 

f:id:amaikahlua:20211024141628p:plain

イベルタルは破壊を司る神で、植物を一瞬で枯渇させ、人間やポケモンを無差別に石化させます。悪玉サイドの三悪党やムサシ達、さらに善玉サイドのピカチュウすらも石になってしまいます。私はこの豪快な大破壊に唖然としてしました。この映画は善玉と悪玉、そして善玉の内部と悪玉の内部におけるキャラを丁寧に配置してきました。しかし作中で丁寧に描かれてきたキャラ配置も、破壊の前では皆平等。みんな一様に石になってしまうんです。みんな石になってしまえば、立場の違いも均質化します。
 
イベルタルはあらゆる生命を枯渇させる破壊の神なのですが、イベルタルの大破壊にはちゃんとした意味があるんです。イベルタルは生命を破壊しますが、作中では破壊された生命が再生することが期待されている節があります。ですからイベルタルの大破壊は自然環境にとって絶対の悪ではなく、自然環境が再生する予兆という意味も備わっています。実際、イベルタルが破壊した自然は、創造の神ゼルネアスの力によって再生しました。死と生、破壊と創造は対立する概念ではなく、一続きのプロセスとして繋がっているというわけですな。
 

f:id:amaikahlua:20211024141745p:plain

ダイイ「イベルタルが大破壊を起こすのは、森の再生能力をよびさますためだとも言われております
シトロン「大破壊も、自然の摂理の一つなのかもしれないってことですね
サトシ「自然の摂理?」
シトロン「生命の誕生とか死とか、そういう自然界のおきてみたいなものです」
 
ゼルネアスはイベルタルの暴走を鎮圧し、枯渇した生命を再生させます。イベルタルの破壊の前では皆平等ですが、ゼルネアスの再生の前でも皆平等。この映画の終盤では、丁寧に配置されてきた善玉悪玉が自然の摂理によって平等に破壊され、平等に再生するプロセスが描かれています。自然の摂理による破壊と再生は、善悪の対立を包括する高階の現象だということなのでしょう。まず初めに複雑な善と悪の模様を描いた後で、善悪を超越した破壊と再生を描く。実に巧妙な脚本だよね。
 

f:id:amaikahlua:20211024141900p:plain

ゼルネアスは自然の摂理を守るために、この映画のラストで美しい樹に変化して眠りに就くことになりますポケモン映画では「自己犠牲からの復活」が美しく描かれてきた伝統がありますが、ゼルネアスが樹になったのも自己犠牲ですよね。また、園田英樹さんは『セレビィ 時を超えた遭遇』『水の都の護神』などのポケモン映画で「ポケモンの死」を描いてきましたが、『破壊の繭』でもゼルネアスをある意味殺しましたね(笑)。そもそもイベルタルの大破壊で森の生命全体が一旦死滅したので、園田さん最後に大量虐殺したなあと思うw
 
ポケモン映画第4作『セレビィ 時を超えた遭遇』では、『破壊の繭』と同じように自然環境が濃密に描かれました。『セレビィで主に描かれたのは「自然を保護する善玉VS自然を破壊する悪玉」の対立で、この対立はかなりシンプルな二項対立だったと思います。一方破壊の繭』では「善玉と悪玉の対立を超越した、破壊と再生のエコシステム」が描かれていて、物語構造が『セレビィの比にならないくらい高度なものになっている。これは長年ポケモン映画の脚本を務めてきた園田さんの円熟であり、総決算だったと言えるでしょう。
 

f:id:amaikahlua:20211024142411p:plain

この納豆ミサイルは、ポケモンらしくなくて面白かった
……私は初めて『破壊の繭』を観終わった時、「これは凄い映画を観てしまった」という、大きな充実感を得ました。でも、『破壊の繭』は凄い映画だと思ったものの、いざ言語化しようとするとどう褒めればいいのかよくわからなかった。長らく考えた結果、この映画の核心は台詞回しや作画じゃなくて、脚本によって構築された「ダイナミックに脈動する関係性」なんじゃないかと思いました。園田さんの脚本は複雑な善と悪の模様と高階のエコシステムを描いていて、巧妙な脚本が構築した「関係性」が私には凄く面白かったんだと思います。

萩原朔太郎「ばくてりやの世界」解説

萩原朔太郎ってどんな人?

f:id:amaikahlua:20211017142228p:plain

萩原朔太郎は日本の代表的な詩人です。朔太郎は前橋中学を卒業した後で熊本の五高、岡山の六高、慶応大学に入学しては退学を繰り返した経歴を持ちます。色々な事情で大日本農学校、京都大学早稲田大学に入学するのに失敗したことも……。朔太郎は、森鴎外芥川龍之介のようなエリートとは違ったタイプの文豪だと思います。優秀な学力や教養ではなく、凡人離れした鋭い感性で魅せるタイプの文豪だと思いますね。

 

f:id:amaikahlua:20211018135454p:plain

(C)イクニラッパー/シリコマンダー
朔太郎の誕生日は11月1日で、『さらざんまい』に登場する久慈悠の誕生日も11月1日です。ついでに言うと中原中也の誕生日は4月29日で、『さらざんまい』に登場する矢逆一稀の誕生日も4月29日です。『さらざんまい』に登場する陣内燕太の誕生日が5月28日なのも何か意味があった記憶があるけど、忘れたわwすまんな。
 
朔太郎は「病的な神経と、精神的な孤独・倦怠を鋭い感受性で表現」することに定評がある詩人です。朔太郎の病的なセンスがよく表れている詩として、私はばくてりやの世界」を挙げます。百聞は一見に如かず、早速「ばくてりやの世界」を読んでみましょう。
 

鑑賞(全文掲載)

ばくてりやの世界
 
ばくてりやの足、
ばくてりやの口、
ばくてりやの耳、
ばくてりやの鼻、
 
ばくてりやがおよいでいる。
 
あるものは人物の胎内に、
あるものは貝るいの内臓に、
あるものは玉葱の球心に、
あるものは風景の中心に。
 
ばくてりやがおよいでいる。
 
ばくてりやの手は左右十文字に生え、
手のつまさきが根のようにわかれ、
そこからするどい爪が生え、
毛細血管の類はべたいちめんにひろがっている。
 
ばくてりやがおよいでいる。
 
ばくてりやが生活するところには、
病人の皮膚をすかすように、
べにいろの光線がうすくさしこんで、
その部分だけほんのりとしてみえ、
じつに、じつに、かなしみたえがたく見える。
 
ばくてりやがおよいでいる。
 

解説

皆さん、いかがでしょうか。この詩は解像度が粗い読み方をすると、バクテリアが色んな所で泳いでいることを表現した詩」だと言えます。しかし、バクテリアが色んなところで泳いでいることなんて、詩じゃなくて生物学のレポートでも説明できることです。朔太郎はバクテリアという題材を用いて、もっと文学的なことを表現しているのだろうと推測するべきでしょう。
 
私が読んだ限り、この詩で特に重要なのは、後ろから2番目のブロックにあるばくてりやが生活するところには、/病人の皮膚をすかすように、/べにいろの光線がうすくさしこんで、/その部分だけほんのりとしてみえ、/じつに、じつに、かなしみたえがたく見える。」という表現だと思います。朔太郎の観察では、バクテリアは「悲しみが耐え難いところ」で泳いでいるのです。このことから、この詩に登場するバクテリア「悲しみの表象」だと解釈できると思います。
 
今ではかなり鎮静化しましたが、新型コロナウイルスが流行し始めると、人々はウイルスの存在に敏感になりましたね。ウイルスの存在に敏感になった人々は、ウイルスの存在を意識して手を消毒したり、マスクを着用して街を歩くようになる。潔癖性の人々も、同じような行動を取るでしょう。おそらく鋭い感受性を持つ朔太郎は悲しみの存在に敏感で、悲しみの存在をウイルスのように意識していたのではないかと私は推測します。その結果、耐え難い悲しみが感じられるところにバクテリアが泳いでいる、という奇妙な内容の詩が誕生したと考えられます。
 

f:id:amaikahlua:20210721180631p:plain

この詩に出てくるバクテリアは、たぶんこういうイメージに近い
そもそも、この詩は「ばくてりやの足、/ばくてりやの口、/ばくてりやの耳、/ばくてりやの鼻、」という出だしで始まっていますが、顕微鏡で観察できるバクテリアには耳や鼻がありませんよねだよね?)。ですので、この詩で表現されているバクテリアは、顕微鏡で観察できる「物理的なバクテリアとは違うものだと考えるべきでしょう。耳や鼻があり、耐え難い悲しみが感じられるところで泳いでいる、モニョモニョした文学的な表象が、この詩ではバクテリアと呼ばれているのだろうと思います。
 
以上の説明で、朔太郎が病的なセンスの持ち主であることが十分に伝わったのではないかと思います。病的なセンスを持っている朔太郎は、様々な場所で耐え難い悲しみを受信し、モニョモニョしたバクテリアのようなものに悲しみを託しているのでしょう。
 
ちなみにこの「ばくてりやの世界」は、朔太郎の処女詩集月に吠える』に収録されています。『月に吠える』の全文は青空文庫とかで無料で読めるので、暇な人は他の詩も読んでみて下さい。