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大江健三郎「奇妙な仕事」解説(前編)

大江健三郎は、東京大学在学中に処女作「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞しました。文芸評論家・平野謙が「奇妙な仕事」を高く評価し、大江は学生作家として文壇にデビューすることになります。さて、「奇妙な仕事」とは一体どんな小説なのでしょうか。

 

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「奇妙な仕事」(『見るまえに跳べ』所収)
1974年初版発行
 
(今回の説明はけっこう長いです。興味の無い箇所は適当に読み飛ばしてOKです)

あらすじ

 
「僕」と「女子学生」と「私大生」の三人は、犬を一五〇匹殺すアルバイトを引き受ける。三人は専門の犬殺しと一緒に仕事を進めながら、会話を交わす。「僕」は仕事の途中で、犬に腿を咬みつかれる。しかも、仕事場の犬の肉が肉屋に売り込まれていたことが発覚して警察に摘発され、仕事は骨折り損に終わってしまうのだった。
 

解説

 
カミュ的な動機
 
主人公の「僕」は、犬を一五〇匹殺す奇妙なアルバイトを引き受けます。仕事の内容は奇妙なものですが、「僕」が仕事を引き受けた動機もけっこう奇妙です。というか、「僕」が仕事を引き受ける気になるまでの過程の描写がずいぶんあっさりしているんです。
 

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どちらにしても僕はそれらの声をあげる犬の群れに深い関心を持っていたわけではなかった
 しかし三月の終りに、学校の掲示板でアルバイト募集の広告を見てから、それらの犬の声は濡れた布のようにしっかり僕の躰にまといつき、僕の生活に入りこんで来たのだ。
 
「僕」はもともと犬にあまり興味が無かったのですが、アルバイト募集の広告を見たことをきっかけに犬を意識するようになります。犬の声が「躰(からだ)にまといつく」という身体的な表現がされているところが興味深いですね。犬の声に理屈で説得されるのではなく、肉体的に支配されることが仕事のきっかけになっているといった感じでしょうか。
 
大江健三郎カミュの影響を受けていると言われているのですが、犬の声が「躰にまといつく」ことが動機になっているところがカミュっぽいなと(私は)思いました。中村文則さんは上智大学のオープン講座で、カミュは体調が精神に侵食してくる描写をする」と指摘しています。*1例えばカミュの『異邦人』では、主人公・ムルソーが「太陽のせい」で殺人を冒します。また、カミュの「転落」では、主人公・クラマンスが「外が寒かったから」人助けを断念したと考えられます。「奇妙な仕事」の場合、犬の声が肉体を経由して「僕」の生活に侵食しているような描写がされています。うーん、カミュっぽいですね。どんなもんでしょう。
 
・アブない女、不甲斐ない男
 
「僕」だけでなく、「女子学生」と「私大生」も、犬殺しのアルバイトを引き受けます。「女子学生」と「私大生」が仕事を引き受けた理由は、「僕」よりはわかりやすいです。
 
 ペイはずいぶん良いわね、と女子学生がいった。
 君は引受けるつもり? と驚いて私大生が訊ねた。
 引受けるわ、私は生物をやっているんだし、動物の死体には慣れてるわ
 僕も引受ける、と私大生がいった。
 
「女子学生」は、給料が良くて動物の死体に慣れているからという理由で奇妙な仕事を引き受けます。「女子学生」の動機は論理的に一貫していますが、それにしても大量の犬を殺す仕事を冷静に引き受けるなんてすごいお嬢さんですね。
 
「私大生」は奇妙な仕事をすることに対してためらいがあったみたいですが、「女子学生」が仕事を引き受けたので場の空気に流されて仕事を引き受けたと考えられます。「私大生」は優しい心の持ち主なのですが、場の空気に流されたところが不甲斐ない所だと思いました。
 
理知的な「女子学生」の性格と感情的な「私大生」の性格が何気に対比されているのかな?と思った。ちょっと自信がありませんけど。
 
・あいまいな日本の学生
 
「僕」が一五〇匹の犬に見つめられる場面は、描写が秀逸です。戦後日本に無気力で無個性な学生が溢れる予兆が、「犬」という題材を上手く使いながら語られているところがナイスですね
 

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一五〇匹の犬に一斉に見つめられるのは奇妙な感じだった。三百の脂色の曇りのある犬の眼に映っている三百の僕の小さいイマージュ、と僕は考えた。それは小さい身震いを僕に感じさせた。
 犬たちは極めて雑然としていた。ほとんどあらゆる種類の犬の雑種がいた。しかし、それらの犬は互いにひどく似かよっていた。(中略)僕らだってそういうことになるかもしれないぞ。すっかり敵意をなくして無気力につながれている、互いに似かよって、個性をなくした、あいまいな僕ら、僕ら日本の学生
 
この小説では、無気力で無個性な日本の学生が虚ろな雑種の犬のように描かれています。そして、実際の雑種の犬たちのよどんだ瞳には、「僕」の姿が映っています。どんよりと濁った「僕」の姿が、大量の犬の目を介して増殖しているような描写がお見事ですね。最近の若者にはやる気が感じられない」とよく言われますが、やる気が無い学生が日本に溢れるフラグは戦後間もない時点ですでに立っていたんですねw
 
岩内章太郎さんは『新しい哲学の教科書』で、「メランコリー」という症状について説明しています。メランコリーというのは欲望の鬱積から来る倦怠と疲労そしていま手にしている意味もやがて消えていくかもしれない予感に包まれた状態だと岩内さんはおっしゃっています。*2ニヒリズムは絶望の一種ですが、メランコリーには希望も絶望も無いという。「奇妙な仕事」で描かれている症状は、ニヒリズムと言うよりはメランコリーに近いのではないかと私は仮説を立てています。
 

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僕はあまり激しい怒りを感じない習慣になっていた僕の疲れは日常的だったし、犬殺しの卑劣さに対しても怒りはふくれあがらなかった。怒りは育ちかけ、すぐ萎えた僕は友人たちの学生運動に参加することができなかった。それは政治に興味を持たないこともあるが、結局、持続的な怒りを僕が持ちえなくなっているせいだった。僕はそのことを時々、ひどく苛だたしい感情で思ってもみるが、怒りを回復するためにはいつも疲れすぎていた
 ひどく絶望したものだな、と僕はいった。
 絶望しているわけでもないのよと女子学生は意地悪な眼で僕を見かえしながらいった。
 
「奇妙な仕事」には敗戦によるニヒリズムが反映されているとは思いますが、極めて現代的なメランコリーも(私は)色濃く感じるのです。大きな物語」が崩壊してしまった後の世界を生きる私たちは、時を越えて「奇妙な仕事」のメランコリックな世界観に共感できるのではないでしょうか。
 
残りの論点は次回でできる限り解説する予定です。では、また次回!

*1:貼り付けたようつべ動画の31:02あたりで中村さんは解説しています。

*2:岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』、講談社選書メチエ、二〇一九、二五頁。