『終ノ空』
シナリオ:SCA-自
原画:SCA-自、基4%、にのみー隊長
(C)ケロQ
1999年8月27日発売
一寸先は奈落
学校の噂や間宮卓司の予言では、 7月20日に世界が終わるという。行人は、 気が付くと晴天下の校門の前に立っていた。 世界が終わると予言された7月20日が過ぎた後も、 相変わらず日常世界が続いているかのように見えた。 学校の屋上には、音無彩名が立っていた。彩名は、 行人の記憶の異常を、鋭く指摘する。
彩名「ゆきとくんは」彩名「ここまで」彩名「学校まで来た記憶がないのに」彩名「学校にいるんでしょ」行人「ああ、そうだ」行人「なら」行人「…やばいよな」行人「俺、病気かな?」彩名「くす」彩名「かもね」
彩名「もしかしたら」彩名「永久に続くかもよ」行人「何が?」彩名「目をつぶった瞬間」彩名「また」彩名「透明な白の中で」彩名「自分を感じるの」彩名「そして」彩名「また」彩名「校門の前で」彩名「立ちつくすかも」彩名「そして」彩名「ここでわたしと会うかもしれない」彩名「いいえ」彩名「もしかしたら」彩名「わたし以外のわたしと会うかも」彩名「無限のわたしと」行人「どこで?」彩名「ここで…」彩名「ここでよ」
もしかしたら記憶が欠落している行人は、 目をつぶった瞬間に光に包まれ、 晴天下の校門にワープしたのかもしれない。 そして行人は学校の屋上で、 彩名との邂逅を無限に繰り返すのかもしれない。 学校の校門へのワープと、彩名との邂逅が、 無限にループしているのかもしれない。いわゆる「無限ループ」 発生の可能性を、音無彩名は示唆する。
行人「たしかに」行人「そうなったら」行人「俺がいた」行人「あの」行人「あの世界は」行人「終わってるな」行人「ここは」行人「あの世界ではなく」行人「無限という」行人「死の世界だな」彩名「くす」彩名「あの世界…」彩名「まるで」彩名「あの世界と呼んでいる」彩名「現実世界が」彩名「あの世になったような」彩名「そんな、言い回し」行人「ふふふふ」行人「その通りだよ」行人「もし」行人「俺がいままでいた」行人「現実世界というものが」行人「終わっているなら」行人「もう」行人「あの世界」行人「つまり」行人「現実世界は」行人「あの世だよ」行人「そして」行人「無限という」行人「死の世界が」行人「この世となる」行人「…」行人「死が絶対にない」行人「死の世界」行人「ふふふふ」行人「それは」行人「地獄だな…」
行人が今まで過ごした現実世界は、もう終わったのかもしれない。 そして行人は、 無限にループする異世界に転移してしまったのかもしれない。 もしそれが本当ならば、行人が今まで過ごした現実世界は「 終わりのある世界」だったわけだ。そして代わりに行人は、「 終わりのない世界」の住人になったことになる。
行人は目をつぶり、また「さっきと違う世界」にワープした(?) 。行人と彩名は学校の屋上でセックスをする。 行人と彩名によれば、愛は「最高の鎮痛剤」である。 愛という鎮痛剤の効果は、束の間のものだ。しかし、 孤独な生の痛みを、愛はしばらくながら確実に忘れさせてくれる。奈落の中で、二人は愛し合う。
次の瞬間が奈落だとしても、それは、しかたない事なのだ。我々はそんな、むき出しの不条理のなかを、実は、生きているのだ。…。
一寸先は闇、という言葉がある。 私たちはほんの少し先の未来も満足に予測する事ができず、 一歩先の未来にすら底知れぬ闇が広がっている。 行人が一歩先に進んだ未来には、地獄や奈落が広がっていた。 私たちには明るい未来が保証されておらず、 私たちにはいつでも理不尽な目に遭う可能性が残されている。 嫌な話だが、「しかたない事なのだ」。私たちの生については、 一寸先は奈落、という言葉がよく似合うと思う。彩名ENDは、 私たちの不条理な実存を作品化したものだと解釈できるだろう。
99のその先
彩名ENDの結末は、 行人が7月20日に行った思索の内容に明らかに対応している。
ふと俺はこんな話を思いだした。ある哲学者がまだそれでは食っていけず、塾の講師をしていた時の話らしい。 彼は、ある学生に九九を教えていた。この学生は鈍臭く、何をやってもだめだったが、あたりまえのように九九もだめであった。 しかしこの学生の間違えには面白い法則性があった。彼は、答えが100を超える数字になると、とたんに答える事が出来なくなったのだ。 つまり、彼は九九とは100以下まで有効な法則だと思い、それ以上の数にはまた新しい法則が付け加えられなければならない と考えたらしい…。 (中略)科学は過去起きた事のなかから法則と呼ばれるものを取り出し、未来を予測する。 〈高いところにあるリンゴから手を離すと、過去にもそれが誰がやってもそう落ちたようにこれも下に落ちる〉 と未来予測をする…。 我々の認識の大半も過去にあったものの再現によって、未来予測をおこなっている。 昨日、明日が来たから、今日にも明日が来ると…。さっきの一歩が踏めたから次の一歩も踏めると…。明日が来ないかもしれないといって、仕事をやめる人もいないし、次の一歩はまだ世界が出来ておらず、踏み出せば奈落に落ち込むといって次の一歩をためらう人もいない …。 だが、そう言えるのか?今までの事が次も起こるのか?もしかしたら次の一歩には世界がまだ間に合っておらず、踏み出した瞬間に奈落に落ち込むのでは…。 もしかしたら、今までが99であって…もうすでに…。
これは根拠の無い私の推測なのだが、『終ノ空』 が1999年に発売された事が、 彩名ENDや行人の思索の内容に大きな影響を与えたのではないか と思う。1999年当時、「2000年問題」が騒がれていた。 1999年までは普通に作動していたコンピュータが、 2000年になったら日付を正常に認識できなくなり、 誤作動するかもしれないという可能性が当時は危惧されていたのだ 。結局2000年問題は杞憂に終わったのだが、 行人が懸念している事は2000年問題に近しいだろう。
1999年までは正常に作動していたコンピュータでも、 2000年になったらバグるのではないか。 100以下までは有効な九九も、 100を超えたら無効になるのではないか。 今まで有効だった科学法則も、 未来になったら無効になるのではないか。今までの一歩先には、今までの常識が通用しない奈落が広がっているのではないか。その不安は、1999年から2000年に移行する際に先鋭化したと推測できる。私たちの踏み出す先が奈落であるという卓司の予言は、 極めて90年代終盤に相応しい。そして行人は今までの一歩先を懐疑し、 彩名ENDでは実際に奈落に落ち込んだ。
彩名ENDの奈落は、 1999年の想像力に支えられたものだろう。 しかし、2020年の今になっても、 私たちの一歩先に奈落が広がっていないという保証は無い。( むしろ、 現在の方が危機に満ちていると言えるかもしれない。 と言うか、2020年はすでに奈落?)『論理哲学論考』 の言葉を借りるなら、「 太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、 われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない」 のである。