かるあ学習帳

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『仮面ライダーディケイド』と『論理哲学論考』が語る形而上学的主体

私は『仮面ライダーディケイド』の内容を独自に調査(笑)した結果、「『ディケイド』の脚本は前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考をベースにして作られている可能性が高い」という仮説に到達した。
 
私は前回の記事で、『ディケイド』と『論理哲学論考』の内容は「物語=歴史」「世界」というキーワードで連結できることを立証した(つもりである)。今回は『ディケイド』と『論理哲学論考』を形而上学的主体」というキーワードで連結してみよう。ちなみに形而上学というのは、超ざっくり要約すると「経験的な内容を超えた世界の根本原理に関する学問」のことである。
 

世界に拒まれた根無し草の写真家

仮面ライダーディケイド』は、平成仮面ライダーシリーズ10周年記念作品である。主人公・門矢士が変身する仮面ライダーディケイドは、並行世界を旅する通りすがりの仮面ライダーである。士はクウガの世界」「キバの世界」「龍騎の世界」……などなど、歴代主人公格ライダーが分立する並行世界を冒険する。それぞれの並行世界には、それぞれの平和を脅かす悪役が存在する。士は仮面ライダーディケイドに変身し、並行世界の悪役を成敗していく。
 

『ディケイド』の興味深い所は、士があくまでも「通りすがりの旅人」であり、彼の趣味が「写真撮影」だという所である。士は様々な並行世界を旅するのだが、どの世界にも定住しない。「世界を救う」という重大な使命が課せられているので、士には特定の世界に留まりダラダラする暇が無いというのが主な理由ではあろう。また、士の趣味は写真撮影なのだが世界が俺に撮られたがってない」ので、彼の写真は常に歪んでいる。
 

士は安住できる世界を持たない根無し草であり、「世界に拒まれた写真家」として描かれている。一体なぜだろうか?この問題の解答は、私がTwitterを利用していた頃から縁があった御仁(ご本人のプライバシーに配慮してお名前とアイコンは伏せます!)が、既に出している。*1彼の解釈を拝読すると、士が「世界に拒まれた根無し草の写真家」であることには、非常にしっかりとした理由があると考えられる。
 

「カメラの撮り手は常にフレームから排除される」ので、"そこ"で写真を撮った記録はあれど"そこ"に自分は存在しないというカメラの持つ本質的な矛盾と、「"そこ"で旅をしていたのに、"そこ"に自分は存在できない」というディケイドの物語構造は似ている、と思う。
 

「私」は「小宇宙」である

カメラで写真を撮ると、被写体は写っても「主体であるカメラ」は写らない。主体であるカメラは被写体に属さず、世界から輪郭を切り取って写真を作り出す。この「カメラの持つ本質的な矛盾」は、ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』第5節で検討される「無主体論」に接続できる。では、Benediction Classics, Oxford(2019)の英訳から『論考』を引用しよう。
 
5.63 I am my world. (The microcosm.)
5.631 The thinking, presenting subject; there is no such thing.
 If I wrote a book "The world as I found it", I should also have therein to report on my body and say which members obey my will and which do not, etc. This then would be a method of isolating the subject or rather of showing that in an important sense there is no subject: that is to say, of it alone in this book mention could not be made.
5.632 The subject does not belong to the world but it is a limit of the world.
5.633 Where in the world is a metaphysical subject to be noted?
 You say that this case is altogether like that of the eye and the field of sight. But you do not really see the eye.
 And from nothing in the field of sight can it be concluded that it is seen from an eye.
5.6331 For the field of sight has not a form like this:

(私=甘井カルアによる和訳)
5.63 私は私の世界である。(小宇宙。)
5.631 思考し、表象する物体……そんなものは存在しない。
 もしも私が『私が見た世界』という本を書くならば、私は私の肉体について報告し、私の意志に従うものや従わないものなどについても述べるべきであろう。そういうわけなら、これは主体を孤立させる方法であり、ある重要な意味では主体が存在しないということを示す方法にもなるだろう。……即ち、この本の中では主体のみが、言及できないものなのだ。
5.632 主体は世界に所属しないが、主体は世界の限界である。
5.633 この世界のどこに、記録される形而上学的主体が存在するのだろうか?
 この案件は明らかに、目と視界の関係に似ていると君は言う。しかし君は、その目を実際に見ていない。
 そして視界のうちのなにものからも、それは目によって見られていると結論されることはない。
5.6331 視界は、このような形をしていない。

ウィトゲンシュタインの「無主体論」はかなり難解なので、端的に要約しよう。「私」の心はこの世界の内側で物質的に存在しないし、「私」の目は「私」の視界に現れない。まるで「主体であるカメラ」が、「カメラで撮られた写真」の内側に写らないように。「私」は世界の内部に所属せず、世界を規定する限界である。「私」が世界の限界であり、「私」は「私の世界」である。つまり「私」は、言わば「小宇宙」のようなものだ。
 

形而上学的主体」としての仮面ライダーディケイド

さて、話を『仮面ライダーディケイド』に戻そう。主人公・士は様々な並行世界を旅するのだが、どの世界も士が内属するのを拒んでいる。まるで「カメラで撮られた写真」が、「主体であるカメラ」が内部に写ることを拒むかのように。まるで「私」の視界が、「私」の目が内部に現れるのを拒むかのように。まるで「私の世界」が、「私の心」が内部で物体として存在するのを拒むかのように。
 
以上の論証により、門矢士=仮面ライダーディケイドの「哲学的な身分」は簡潔に特定できる。即ち、士=ディケイドは、「世界に内属しない形而上学的主体」の象徴なのだ。士=ディケイドは形而上学的主体の象徴であり、世界の内側に根を張る形而下的存在者の象徴ではない。だからどの並行世界も、士=ディケイドの存在を拒んだのだろうと私は推測する。
 
さて、ここまで追究すれば、GACKTが歌う『仮面ライダーディケイド』OP「Journey through the Decade」2番の歌詞を、読者諸賢ならば容易に解読できるだろう。
 

レンズ越しに切り取った景色を見つめても
真実とは心の目の中に写るものさ
 

……私たちは私たちの「心の目」で、私たちの世界を写し出す。私たちの心の目に写った光景こそが紛れもない真相であり、私たちの心の目が目撃した真相の蓄積が私たちの世界を形成する。だから、私は「私の世界」であり、「小宇宙」なのだ。
(C)2009 石森プロ・テレビ朝日ADK東映

*1:勝手に引用してすみません。何か問題があったら気兼ねなくご連絡ください。