今回は『終ノ空』 の主要登場人物である高島ざくろと間宮卓司について考察する。 正気の人間である行人や琴美とは対照的に、 ざくろと卓司は狂気に陥った。ざくろと卓司は、 語り得ぬものについて語った。そしてざくろと卓司は、 世界の終末の到来を信じた。
『終ノ空』
シナリオ:SCA-自
原画:SCA-自、基4%、にのみー隊長
(C)ケロQ
1999年8月27日発売
高島ざくろについて
高島ざくろは不良の小沢裕一に強姦され、弱味を握られていた。 琴美には優しくしてもらい、感謝していた。ざくろは「 前世の仲間」から手紙を受け取る。前世の仲間である宇佐美・ 亜由美に出会い、前世の記憶を取り戻す。 ざくろと前世の仲間たちは「大いなる災い」 から世界を救うために、学校の屋上から飛び降りる儀式( スパイラルマタイ)を行い、死亡した。
『終ノ空』琴美視点を読み終わった後でざくろ視点を読むと、 琴美とざくろがいくつかの点で「対」 の関係になっていることに気付かされる。まず、 琴美は世界の終末の到来を信じまいとするが、 ざくろは世界の終末の到来を信じた。 そして琴美はあくまでも現世の住人であろうとするが、 ざくろは前世の記憶を頼りに行動を起こした。 琴美には日常生活でするべきことがたくさんあった一方、 ざくろは無意味に感じられる毎日を送っていたことも対になってい るのだろうか。
ざくろは「前世の仲間」に出会い、前世の記憶を取り戻した。 ざくろの覚醒(アタマリバース)は、 正常な人間からすれば狂気や電波を感じるものだ。なぜだろうか。 なぜなら、現世を生きる私たち人間は、通常の場合、 前世の記憶を持たないからだ。 私たちには前世での出来事を経験した記憶が無く、 理性をもってしても前世での出来事を推論する事ができない。 そういう意味で、前世の事柄は理性の限界を超えている。 そもそも、私たちに前世が存在するかも定かではない。 ざくろは理性の限界を超越した事柄を知り、理性の限界を超えた。 だから私たちは、ざくろの事を「狂っている」と思う。
宇佐美「お手紙に書いた通り、あなたと私達は前世で世界の危機を救う為に戦った仲間だったんで す」 仲間…。築川さんと瑞緒さんとは仲間だった…。そう言えば、あの時…。空から大きな禍々しいモノが降ってきた時、隣に誰かいた様な気がする…。 あれは…、あれは築川さんと瑞緒さん…?宇佐美「私達は昔、もう1つの宇宙、アウタースペースにある」宇佐美「ネブラ星雲のエロヒムロという星の住人でした」
私たちは普通、「自分はなぜ生まれてきたか」「 自分はなぜ存在しているのか」 という根本問題に満足に解答できない。 しかしざくろは前世の仲間と対話することにより、 自己の存在理由をも知る。自己の存在理由は前世の事柄と同じく、 経験によっても理性によっても十分に解答できない問題である。 自己の存在理由を解き明かすのは理性の限界を超えた行為であり、 やはり正気を逸脱している。だから、ざくろは狂っている。
私が何で生まれて来たか…、私が何で存在しているか…、それが今日解ったわ…!そうよ…、私は世界を救う戦士だったのよ!仲間と共に…。仲間…。友達…。本当の友達…。
常人は前世の記憶を持たないし、 自己の存在理由を満足に知らない。 前世の事柄や自己の存在理由は、常人にとっては「語り得ぬもの」 であるはずだ。*1しかしざくろは語り得ぬものを知り、 解き明かした。ざくろは語り得ぬものを解き明かしたという点で、 卓司と同類の人間だとみなされる。
間宮卓司について
間宮卓司は、 校内でいじめや嫌がらせの標的にされている少年であった。「 バカタク」「ゲロタク」などと罵られていた。 自分をいじめる他人やいじめを無視する教師に対して、 卓司は憎悪を抱いていた。卓司は世界の終わりを信じ、幻覚(?) が見えるようになる。 壁に描いた魔法少女リルルの落書きと対話することができる。「 真理」に到達した卓司は、 世界の終わりを宣告する救世主を名乗るようになる。
救世主に生まれ変わったと自称する卓司は世界の終わりを宣告し、 この世の多くの建前が嘘であると力説する。平凡な人々は「 人類は皆平等だ」「嘘をつくのは悪いことだ」といった建前= 嘘を適当に信じ、適当に生きていく。しかし卓司は、 平凡な人々が信じる嘘を嘘だと言い切ってしまう。 そして人々の未来には奈落が待ち構えていることを宣告してしまう 。卓司は、日常性に「否」を突き付ける予言者である。
卓司「そう、嘘なのだ!」卓司「すべては嘘であったのだ!」卓司「世界がずっと前からあることも」卓司「これからもあり続けることも」卓司「すべては嘘だ!」卓司「我々が前に踏み出そうとするその先は…」卓司「奈落なのだ!!」卓司「世界は終わる!」卓司「確実に終わる!」卓司「これが真実なのだ!」
卓司は大勢集まった信者たちに説法する。 卓司は人生の無意味さを喝破する。卓司はその代わり、「兆し」 と「予還」について語る。
卓司「我々は、今までの我々の不条理さ、不合理さ、を認め」卓司「さらに、我々の終わりを受け入れなければならない!」卓司「無意味な人類の!一生を!受け入れなければいけない!!!」 (中略)卓司「しかし、それを認めてなお」卓司「無意味な人生そのものを受け入れてなお」卓司「我々が、その存在を否定しきれないなら」卓司「君の心に」卓司「まるで」卓司「沈んでしまった船が」卓司「その船の」卓司「その躯のあった場所に…」卓司「残していった」卓司「水面の」卓司「水面の…波紋…」卓司「揺らぎのように」卓司「心の中に、予感があるなら」卓司「波紋のような揺らぎがあるなら」卓司「それは…」卓司「それこそ」卓司「兆しへの予還である」
さて、卓司の言う「兆し」「予還」とは何だろうか。思うに、「 兆し」「予還」とは、この世界の内側から感じられる、 この世界の外側の事象の「予感」のことだろう。 この世界の内側に存在している私たちは、 人生の意味について満足に答えを出すことができない。 そしてこの世界の内側に存在している私たちの生は、 不条理なものに感じられる。
この世界の内側に存在している限り、 揺るぎない人生の意味は見つかりそうもない。しかし、 この世界の外側に出たら、 揺るぎない人生の意味が見つかるかもしれない。 カラッポな私たちの生は、 世界の外側から降り注ぐ意味によって満たされるのではないか。 私たちの生を有意味なものにする〈外部〉が存在する予感が、「 兆し」「予還」と呼ばれているのだろう(たぶん)。
兆しからそれ以後になるための儀式として、卓司は集団自殺を行った。集団自殺の後、行人は卓司を次のように評している。 卓司は理性の限界で立ち止まらず、語り得ぬものについて語った。 卓司は、形而上学を誕生させようとした。
カントによれば、形而上学とは「経験の限界を超えた、 果てしない抗争の戦場」である。「 世界の果てはどうなっているのか」「死後に魂は存在するのか」「 神は存在するのか」……など、 人間の経験はもとより理性を当てにしても解答するのが困難な根本問題が、 形而上学では議論される。卓司は、形而上学の世界に、 堂々と足を踏み入れた。
理性の限界で立ち止まった行人と理性の限界で立ち止まらなかった 卓司の間では、反形而上学と形而上学の対立が発生している。 行人と卓司の関係は対になっており、行人は卓司に対決を挑む。 しかし、卓司の方は行人にある種の好意を抱いていた。
卓司「僕はね」卓司「たぶん」卓司「僕は君が好きだったんだよ…」行人「…なんだそれ?」卓司「すべての誤謬の中で」卓司「君だけは」卓司「僕のなかで真実だったのかもしれない」行人「…」行人「お前…ホモか?」卓司「あははははは、違うよ」卓司「肉体の君など」卓司「好きでもなんでもないよ」行人「…よかった」卓司「こんな言葉を知ってるかね」卓司「つれだつ友なる二羽の鷲は、同一の木を抱けり」行人「…」
世界を注視する行人と世界を食らう卓司は、対立している。 しかし行人と卓司は、彩名が言う通り「裏、表の逆でしかない」。 行人と卓司は、所詮二羽の鷲のように「つれだつ友」なのだ。 卓司は行人に対して、「つれだつ友」 としての親近感を抱いていたのだろう、と推測できる。 なんやかんやで行人が世界を愛していたところも、卓司は気に入っていたのだろう。
〈12/23追記〉
1999年版『終ノ空』考察解説まとめです。良かったらどうぞ。