本日は、平沢進(P-MODEL)の『論理空軍』を考察する。 平沢進(通称:平沢師匠) はとてもヘンテコな音楽を作ることで有名な音楽家で、 彼の音楽は実に変なのでネットでネタにされがちである。『 論理空軍』も例に違わず奇妙な音楽で、 私は聴いていてしょっちゅう頭がおかしくなりそうになった。 しかし10回くらい繰り返し聴いているうちに、この『論理空軍』 が何を表現している音楽なのかがようやくわかってきた。
おそらく『論理空軍』は、「論理が飛躍し、空回りしている」 ということを表現した音楽なのだと思う。とりあえずみんなも、 この珍奇なPVを視聴してみてくれえ……。
『論理空軍』の歌詞の考察
まず、『論理空軍』の歌詞を考察する。平沢師匠は『論理空軍』 の歌詞で、何度も繰り返し空中戦に挑んでは失敗し、 時間を巻き戻して再チャレンジする戦士になりきっている。 戦闘機に乗って空を飛んだけど、また自機が大破してしまった。 でもあきらめないぞ。時間を過去に巻き戻し、 別の選択肢を捜せばいいのだから。
UNDOで寸分前の過去を帳消す飛行機で何万の航路を開けて出迎えるスフィアを行け
「undo」とは、「元に戻す」という意味の英単語である。「 UNDOで寸分前の過去を帳消す飛行機で」という歌詞はつまり、 「前回は戦闘機が失敗をしでかしたので、 時間を巻き戻して空戦をやりなおそうぜ!」という意味であろう。
また、「スフィア」とは、「天体」「球体」「星」 などの意味を持つ英単語である。したがって「 何万の航路を開けて出迎えるスフィアを行け」 という歌詞はつまり、「 これから先何万パターンも選択肢がある戦場に向かうんだけど、 この空中戦で頑張って正解の択を選ぼうぜ!」という意味であろう。
塀へ 塀へ一瞬脳裏のクラッシュは安住の幻影を消去し歪曲のルートで塀消す
平沢師匠は戦闘機を操縦し、目の前にある巨大な壁のような「塀」
私の推測では、平沢師匠の言う「塀」 というのは物理的な壁ではなく、「過去の過ち」「 過去のトラウマ」のような心理的な障壁ではないかと思われる。 さらにこの『論理空軍』 という曲は現実世界に実在する戦争ではなく、 平沢師匠の脳内で繰り広げられる「試行錯誤」 を描いているとも私には思われる。
夢に見た 再生の空再会の空 あー
平沢師匠は戦闘機による戦争が終わり再生し、 平和になった空を夢見ている。そして彼は戦争の果てに、 誰かは知らへんけど大切な何者かと空で再会することも夢見ている 。だから彼は、再生と再会のための空中戦を諦めないのだろう。 あるいは空中戦が失敗する度に時間が過去に巻き戻されているので 、「同じ空を夢に見るくらい再び見ている」 という解釈もできそうだ。このサビの解釈は、 人によってかなり分かれそうな感じがするね。
この一発目のサビ以降の歌詞は、 私がここまで進路を提示すればたぶんある程度解読できるはずだ。 あとの歌詞の精細な解釈は諸君の健闘を祈る!
『論理哲学論考』の成立経緯の考察
さて、『論理空軍』考察のための補助線として、
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889~1951)
父カールの遺産をめぐるエピソードは、そうした彼(注: ウィトゲンシュタインのことです) の特異性を如実に物語るものだろう。 ケンブリッジ大学で論理学と哲学に打ち込んでいた頃、 父が死去し、彼は莫大な遺産を手にした。しかし、 彼はそれを不遇な芸術家たちに寄付するなどして、 やがてすべてを手放してしまったのである。
また、同じ頃彼は、自ら死地を求める行動をとってもいる。 一九一四年、第一次世界大戦が勃発すると、 彼はすぐさまオーストリア軍の義勇兵に志願し、最前線に立った( 注:東部戦線の砲兵連隊です)。 彼はそこで勲章を授与されるほどの勇敢さを見せることになる。
そして、彼はまさにその戦地で、自らの才能を大きく花開かせている。彼はこの大戦の間、ときに塹壕のなかで自らの思考をノートに綴り、かたちにしていった。それこそが、後に『論理哲学論考』と題される書物の原形にほかならない。*1
……ねえみんな、このウィトゲンシュタインとかいう哲学者、 かなりの変人だったらしいけど超絶クソカッコ良すぎると思わない か??名門ケンブリッジ大学出身で、 親の遺産を食い潰さず不幸な人々に寄付し、第一次世界大戦の最前線で祖国の命運を賭けた戦いに参戦するなんて、 漢の中の漢である。
しかもウィトゲンシュタインは第一次世界大戦の死線で壮絶な戦闘 を繰り広げながら、 ニュータイプとして覚醒したアムロみたいに論理哲学者としての才 能を大きく花開かせたのである。 そして激戦の末に生き残ったウィトゲンシュタインは勇敢勲章を三 つ獲得し、『論理哲学論考』 とかいう哲学書を書いて世界中を震撼させたのである。
『論理空軍』と『論理哲学論考』の組み合わせから見えてくるもの
ウィトゲンシュタインは第一次世界大戦に、 陸軍の砲兵として配属された。 そして彼は決死の戦いを繰り広げながら論 理哲学者としての才能を覚醒させ、『論理哲学論考』を書いた。『 論理哲学論考』 はその名の通り非常に論理的で明晰な文章で綴られており、 ウィトゲンシュタインが戦場に蔓延るザクみたいな連中と戦いなが ら論理的思考力を底上げしまくっていたことが窺える。
ウィトゲンシュタインが陸軍に参加した論理哲学者である一方、 平沢進は空軍をテーマとする『論理空軍』 を作曲した電波系音楽家である。そして『論理空軍』 の歌詞やPVは文字通り「ぶっ飛んで」いて、『論理哲学論考』 のような論理的整合性が感じづらい。それどころか『論理空軍』 は論理がいろいろ飛躍していて、 頭がおかしくなりそうな狂気を感じるレベルの音楽である。
『論理空軍』は電波ミュージックであり、論理が飛躍している。 平沢師匠は論理が飛躍しているのでウィトゲンシュタインのように明晰な陸軍になることができず、「飛翔した空軍」にならざるを得ないのであろう。そして『論理空軍』のPVでは、 平沢師匠が操縦する戦闘機のプロペラがせわしなく回転している。 この回転するプロペラはおそらく、「論理が空回りしている( 空転している)」ことを表現しているのだろうと私は思っている。 ともかく『論理空軍』は、 論理が飛躍しまくったデッドゾーンを浮遊しているように、 私には思えるのである。
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」 とウィトゲンシュタインは語った。平沢師匠は『論理空軍』 で明晰に語りうる世界の外側を飛翔してしているがゆえ、『 論理空軍』については、もはや私は沈黙しなければならない。
Q.E.D...?
以上で、『論理空軍』の考察を終了する。
*1:紫字の引用箇所は古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』、角川選書、二〇一九、一六頁。