かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『幻のポケモン ルギア爆誕』考察~自然・人間・神~

今回は先月に引き続き、ポケモン映画『幻のポケモン ルギア爆誕』(以下『ルギア爆誕』)を考察します。

 

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幻のポケモン ルギア爆誕
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト99
1999年7月17日公開
 

「深層海流」と「音楽」

 

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『ルギア爆誕』では、「深層海流」が重要な要素になっています。オーキド博士の説明によれば、火の神・ファイヤーと雷の神・サンダーと氷の神・フリーザーによって深層海流は作り出されます。まず、フリーザーは海を凍らせます。次に、ファイヤーは氷を溶かします。そのとき、海の底に海流が生み出されます。さらに、撹拌された海水にサンダーの電気が作用し、生物の素であるタンパク質ができます。したがって、深層海流は神々の相互作用によって生まれる生命のふるさとだといえます。
 

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深層海流は、異なる存在がお互いに作用し合って成り立つ自然界の象徴だと解釈できますね。『ルギア爆誕』では深層海流に加えて「音楽」も重要な要素になっていますが、これもまた素晴らしいイマジネーションだったと思います。異なる音の組み合わせによって成り立つ音楽が、異なる存在の共存によって成り立つ自然環境を象徴しているのです深層海流と音楽というモチーフを使ってそれぞれの自己存在の共存」というテーマを描くという手法がとても上手いですね。
 

「悪人」ではない「悪役」

 
『ルギア爆誕』には、ジラルダンという悪役が登場します。ジラルダンは巨大な飛行船に乗り、ファイヤー・サンダー・フリーザー、そしてルギアを捕獲しようとします。ジラルダンが神と呼ばれる伝説のポケモンを捕獲したことにより、自然界のバランスはメチャクチャになります。
 

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個人的に、ジラルダンはとても興味深い悪役だと思います。ジラルダンは、自分のことを「コレクター」だと言っています。ジラルダンは欲しいポケモンを集めたいという欲望に忠実に従っているだけで悪意はなく、美しいものに囲まれて過ごす紳士です。ジラルダンの作中での役回りは「悪役」ですが、本人には悪気がないので「悪人」ではないといったところです。
 
こう書くと、「何の良心の呵責も抱かずに犯行を重ねられるから、ジラルダンっていわゆる〈サイコパス〉と呼ばれる人種じゃね???」と思う方がいらっしゃるかと思います。正直、ジラルダンはかなりのサイコパスだと私は思っています。
 

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毎日新聞より。タピオカブームに伴うごみ問題
しかし、ジラルダンのような側面は、私たち人間なら誰でも多少は備わっているのではないでしょうか。例えば私たち人間は、動物を殺害して作られた高級な毛皮のコートを欲しいと思ったり、電力を大量に消費しながら贅沢な生活をしたいと思ったりします。私たち人間には価値のあるものを欲しがったり贅沢をしたりしたい心があって、しかもそのために環境が破壊されても気にしないエゴもあると思います。そういう点で人間には身勝手な側面があると思いますし、そうした人間の異常さがジラルダンという悪役に象徴されているんだと思います。
 

「神の存在」が語られる

 
『ルギア爆誕』では「それぞれの自己存在の共存」「深層海流」「人間のエゴによる環境破壊」がテーマになっている、というのがよくある説です。さらに、『ルギア爆誕にはあからさますぎて見落とされてきたと思われるテーマがあります。それは、「神の存在」というテーマです。
 
ミュウツーの逆襲』では、フジ博士がミュウツーにこう語っています。

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映画『ミュウツーの逆襲』より

(C)ピカチュウプロジェクト98

「この世で別の命を作り出せるのは、神と人間だけだ」
 
ミュウツーの逆襲』ではミュウツーを発明した科学者=「別の命を作り出した人間」が登場しましたが、「別の命を作り出した神」は登場しませんでした。*1しかし『ルギア爆誕』では、ファイヤー・サンダー・フリーザーという「別の命を作り出した神」が登場します。『ルギア爆誕』では自然・人間・神が大がかりなスケールで描かれており、『ミュウツーの逆襲』で語られたテーマのその先が語られているといえます。

*1:ミュウツーはコピーポケモンを創造しましたが、ミュウツーは「神」だとは断言しがたいと思います。

【ブログ奮闘記】1月~6月のブログ人生を振り返る。

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皆さん、こんばんは!
 
時の流れは早いもので、2019年も残すところあと半分くらいですね。ちょうどいい頃合いなので、今回はこのブログの約半年間を振り返ってみようと思います。


絶望の「読者ゼロ人時代」

amaikahlua.hatenablog.com

今年の1月、このブログは「読者数・総スター数・総ブックマーク数0」の状態からスタートしました。私は去年の4月からブログを始めたのですが、去年は毎月更新しても全然反響が無かったのです。そのことが悔しくて、今年の1月から去年よりももっと本気で書いた記事を毎週のように投稿しました。
 
はじめのうちは、相変わらずほとんど反響がありませんでした。本当に頑張って書いたのに絶望から抜け出せず、自分のブログを見るのが憂鬱な日々が続きました。「みんな読者数やスター数が多くてすごいなあ…みんな天才じゃね???」と内心ずっと思っていた(今もそう思っていますが、笑)。今年の2月の記事に当時の愚痴が残っているので、引用しますw
 

amaikahlua.hatenablog.com

さらにぶっちゃけた話をすると、私は
「ヲタクコンテンツや学問に興味があり、クッソ長い文章につきあってくれて、自分用のはてなブログを持っている人」
を読者として想定しながら今までの記事を書いてきました(赤面)
冷静に考えてみるとこいつどんだけ思い上がってるんだよって話ですよ。
世の中には私とは違ったことに興味をお持ちの方がたくさんいらっしゃるし、みんな私のクッソ長い文章につきあう気になんてなれないですよね。
今までの自分のブログには大多数の他人への配慮が足りていなかったなあと心から反省しております。


当時の自分には「このブログにはヲタクコンテンツと学問のことが書いてあるから、このブログにはヲタクや読書家のような方々が自然と集まるに違いない」という勝手な思い込みがあったんですよね…。だから、私とは趣味が違う方やもっと幅広いタイプの層に読まれる可能性を全然考慮していなかった。

 

『青い空のカミュ』の思い出

 

amaikahlua.hatenablog.com

そうこうしているうちに、『青い空のカミュという美少女ゲームの発売日が近づいてきました。読者様への配慮が足りていなかったことを反省した私は、この『青い空のカミュ』をできるだけ多くの方に理解して頂けるような文章を心がけて批評してみることにしました。ところがこのゲーム、18禁のエロゲーであることに加えてシナリオが複雑で、一筋縄ではいかない作品でした。
 
『青い空のカミュ』製品版が発売される前は、「シナリオが自分に理解できないくらい難解だったら嫌だな…」と正直不安になっていました。製品版が発売された後はネットに高レベルな考察がたくさん提出されたので、変な話「他の方々の考察に〈負けない〉レベルの記事を書かなければならない」というプレッシャーに押し潰されそうになりながら毎回更新していたなあ。皆さんからこのブログに寄せて頂いたコメントは、考察の決め手になりましたね。皆さん有難うございました。

 

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で、数か月にわたる『青い空のカミュ』批評はかなり好評だったと思いますし、批評を書いているうちにいろんな出会いにも恵まれました。特に嬉しかったのは、『青い空のカミュ』の原画・シナリオ担当の〆鯖コハダさんご本人に何度もこのブログをTwitterで紹介して頂き、お褒めの言葉を頂いたことですね。作者様の目に留まったので、ブログを真面目に書いて良かったと思いました。

 

ポケモン映画批評の開始、そしてお別れの悲しみ

 

amaikahlua.hatenablog.com

私は今月から、ポケモン映画の批評をブログに連載するようになりました。(特に初期の)ポケモン映画は考察に値する作品だと思うのですが、ポケモン映画の踏み込んだ考察がネットには意外と少なかったため、自力でできるだけ詳しいことを書いてみようという信念を貫き通すつもりです。ポケモン映画の批評は来月も継続しますので、よろしければおつきあいください。
 
最後に一つ、ここに書き残しておきたい辛いことがあります。私は今年、二人の読者様にブログの読者登録を解約されました。お二人とも私が尊敬していた方だったので(もちろん今でも尊敬しています)、お二人に離縁されたことはずっと大きな精神的ダメージになっています。一時は精神的ダメージのせいで現実の日常生活に支障をきたすほど追い詰められ、ブログをやめることを何回も考えました。しかし、どうしても書きたいことがまだあるので、今日まで歯を食いしばってブログを続けています。
 
私は臆病な人間なので、「みんな!読者登録・スター・ブックマークよろしくな!」なんてことは大きな声で言えません。ただ、皆さんからの読者登録・スター・ブックマークは、私にとって大きな励みになっています。とだけ言っておこうと思います。

ドストエフスキー『罪と罰』を読み解く~「7」からはじまる物語~

今回は、ロシアの文豪ドストエフスキーの代表作罪と罰を読み解きます。はじめにお礼申し上げますが、この記事はfufufufujitani様からの激励と承諾によって完成しました。fufufufujitani様、本当にありがとうございました。

 

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罪と罰(1~3)』
2008~2009年初版発行
 

「6」にいろどられた物語

 
罪と罰』は光文社古典新訳文庫では全3巻に分けられている、長大な小説です。そして作中では、ラスコーリニコフやスヴィドリガイロフなど、名前が長い登場人物が多数登場します。読むのがなかなか大変な小説ですから、物語の内容を整理しながら読みたいところですよね。
 
「構成読み解き家」としてネットで活動中のfufufufujitani様は、罪と罰』の物語を数字の「6」に着目して整理するという、驚くべき考察を公表していらっしゃいます。『罪と罰』では「6」という数字が重要な意味を持つことに注目すると、いろんなことが一気に整理されるという説です。
 
まず、『罪と罰』の主人公の名前はロジオーン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフといいます。英語のRはロシア語ではPになるので、ラスコーリニコフの頭文字はPPP。そしてPPPをひっくり返すと「666」になります。このことは、『罪と罰』を和訳した江川卓先生や亀山郁夫先生も指摘なさっていることです。
 

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そして、fufufufujitani様の解釈によれば、『罪と罰』の登場人物は役割ごとに「6人」のグループに分けることができるそうです。さらに『罪と罰では、ラスコーリニコフの論文や新約聖書のラザロなどが「復活」する場面が「6回」描かれています。また、文章とお金に関する表現が「6回」登場します。詳しいことはfufufufujitani様のまとめに書いてありますので、興味がある方はこの機会にご覧ください。
 

「7」からはじまる物語

 
ここからは私=甘井カルアの解釈になります。私は、『罪と罰では「6」だけでなく「7」も重要な意味を持つ数字だと考えています。罪と罰の物語では、「7」は「物語の始まり」を意味する数字だと思います。
 

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講談社まんが学術文庫『罪と罰』より抜粋
 
まず、『罪と罰』の物語は、7月7日から始まります。出だしからさっそく「7」が出てきます。
 罪と罰』の物語は、「七月の初め……」という書き出しではじまるが、物語第一日目の正確な日付は、七月七日と特定できる。マルメラードフがラスコーリニコフとのやりとりのなかで口にするセリフ「六日前のことですが、わたしが最初の給料を」が手がかりである。当時、官公庁の給料日は毎月一日と定められていた。*1
 

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そして、『罪と罰』第1部は、7節に分かれています。やはり、始まりは「7」です。ちなみに、第1部に続いて第2部も7節、第3部と第4部は6節、第5部は5節、第6部は8節、エピローグは2節に分かれています。途中で節の数が7→6→5と1ずつ少なくなっていますが、この理由が今の私にはよくわかりません。どなたかわかる方、教えてください。
 

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罪と罰』エピローグの1節目では、裁判によりラスコーリニコフ8年の刑期が言い渡されます。この「8」という数字は、エピローグの前に来る第6部が8節に分けられていることと対応していると思います。エピローグの2節目(これが最後の節です)で、ラスコーリニコフの刑期が残りあと7年になったところで『罪と罰』の物語は完結します。「7」、始まりを予感させる数字です。
 

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講談社まんが学術文庫『罪と罰』より抜粋

 この幸せがはじまったばかりのころ、ときどきふたりは、この七年を、七日だと思いたいような気持ちになった。(中略)
 しかし、もう新しい物語ははじまっている。ひとりの人間が少しずつ更生していく物語、その人間がしだいに生まれかわり、ひとつの世界からほかの世界へと少しずつ移りかわり、これまでまったく知られることのなかった現実を知る物語である。これはこれで、新しい物語の主題となるかもしれないーしかし、わたしたちのこの物語は、これでおしまいだ。*2
 
最後の最後になって始まりを予感させる「7」という数字が再び提示されたあと、新しい物語の始まりを明確に告げる結末で『罪と罰は完結しています。全部で6部からなる物語にエピローグが加わると「7」になるところも天才的に上手いですね。罪と罰のエピローグには、新しい物語の始まりを告知する役割があると解釈できますね。
 
ネットで調べてみたら、聖書で「6」という数字は不完全なものを表し、「7」という数字は完全なものを表すことが多いみたいですね。また、「666」は「悪魔の数字」だといわれています。罪と罰』は不完全なものを表す「6」に彩られた物語でしたが、そこにエピローグが加わると完全な「7」になる。そしてそこから新たに物語を始めることができる。…といった意味合いが込められているのではないでしょうか。

*1:ドストエフスキー亀山郁夫訳)『罪と罰2』、光文社古典新訳文庫、二〇〇九、四二四頁。

*2:ドストエフスキー亀山郁夫訳)『罪と罰3』、光文社古典新訳文庫、二〇〇九、四六二~四六三頁。