かるあ学習帳

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『沙耶の唄』の考察~全体構造編~

今回から、虚淵玄さんがシナリオを担当した美少女ゲーム沙耶の唄を考察します。虚淵さんは、2010年代前半のアニメ史上で非常に素晴らしい仕事をした脚本家ですよね。『魔法少女まどか☆マギカ』『PSYCHO-PASS』など、アニメ界を席巻する名作を続々生み出した方です。そんな虚淵さんですが、2000年代は美少女ゲームのシナリオを書いていました。沙耶の唄』は、ゼロ年代虚淵さんの代表作です。

 

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シナリオ:虚淵玄
原画:中央東口
2003年12月26日発売
 
沙耶の唄』はグロテスクな表現に定評がある作品で、俗にグロゲーと呼ばれるジャンルの名作としてよく挙げられます。虚淵さんの重厚なテキストと中央東口さんのキレのある(?)イラストが、良い雰囲気を醸し出しています。この作品のシナリオとイラストは、美少女ゲームの王道から大きく逸脱しています。沙耶の唄美少女ゲームの王道をいく作品ではありませんが、ホラー映画の王道をいく作品だと思います。
 

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主人公・匂坂郁紀は交通事故の後遺症で知覚障害を負い、身の周りにあるものが醜悪な臓器や怪物に見えるようになります。この作品で郁紀が認識する世界は極めて個人的なものですし、郁紀と沙耶の恋愛は世界の命運を左右します。セカイ系という言葉の定義は曖昧なものですが、『沙耶の唄のシナリオは明らかにセカイ系だと言っていいんじゃないかな。
 

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郁紀は日常世界を醜悪な姿で認識するのですが、ヒロインの沙耶だけは唯一まともな人間に見えます。沙耶は、郁紀にとって醜い世界に咲く美しい一輪の花なのです。ちなみに軽くネタバレしますが、沙耶の姿は郁紀以外の大抵の人間の視点から見ると恐ろしい怪物に見えます。この「ある人間の視点では美少女に見えるが、別の人間の視点では有害な化け物に見える」という設定は、こんにち「美少女キャラクター」と呼ばれているものに対するある種の批評になってるよねw*1
 

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沙耶の唄』には耕司という男が登場するのですが、耕司はこの作品の影の主人公…というか主人公の対極のような存在だと思います。郁紀は世界を歪んだ姿で認識する異常者なのですが、耕司は世界を平凡に把握する常識人です。耕司は作中で発生する異常な現象に、理性的な・常識的な仕方で対処します。耕司は郁紀の親友ですが、世界を把握する仕方が郁紀とほぼ真逆だし、「開花END」と「耕司END」では郁紀と対決することになります。
 
沙耶の唄』はノベルゲームらしく途中でシナリオが分岐し、俗に「開花END」「耕司END」「病院END」と呼ばれる3種類のエンディングが用意されています。「開花END」は、郁紀の異常な認識に肩入れした結末です。「耕司END」は、耕司ら常識人の平凡な認識を強く揺さぶる結末です。「病院END」は、異常者でもなければ常識人でもない落伍者から見た「第三項の世界」を描いた結末です。

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3つの結末をカテゴリー分けすると、上記の図のようになります。3つの結末では、重点的に描かれる「世界(セカイ)」が違うというのが私の解釈です。*2

 

dangodango.hatenadiary.jp

週休二日さんによる『歯車』解説。芥川の『歯車』の対称構造を解析した、驚愕の考察である

もう少し、物語の構造の話をしましょう。週休二日さんの経験則では、一部の短編小説(芥川龍之介の『歯車』など)には精密な構造があるが、小説は長編になるほど全体構造が緩くなるようです。その代わり、一部の長編小説(ドストエフスキーの『罪と罰』など)ではキャラ配置が徹底されるようです。
 
この件について、一つ申し上げたいことがございます。それは、「複数の彼女/彼氏や複数のエンディングを両立できるノベルゲームの場合、その性質上〈物語構造〉と〈キャラ配置〉もけっこう高度に両立できる」ということです。例えば『ゴア・スクリーミング・ショウ』『さよならを教えて』『好き好き大好き!』などの一部の美少女ゲームは、手の込んだ物語構造とキャラクターによる役割分担をノベルゲームならではの仕方で兼ね備えていると思います。*3
 

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沙耶の唄』の場合も、物語構造とキャラ配置がある程度両立していると思います。3つの結末では、3種類の物の見方が三権分立みたいに割り振られていると思います(物語構造)。そして郁紀は異常な認識を担い、耕司は常識的な認識を担っている(キャラ配置)。まあ、構造や配置といえるほど御大層なものではないかもしれませんがw次回からこうした物語構造とキャラ配置に着目しつつ、『沙耶の唄の物語を今回よりも内在的に考察していきたいと思います。
 
〈関連記事〉
実は今年の2月に『沙耶の唄の考察をすでに1回書いたのですが、2月の考察はあまり出来が良くないと思います。そこで、今回から『沙耶の唄』を語りなおすことにしました。

*1:失言だったらすまんな。

*2:私と同じような解釈を数年前にどこかの個人サイトで拝見したことがあるのですが、今検索してみたら見つかりませんでした…。

*3:『ゴア・スクリーミング・ショウ』『さよならを教えて』『好き好き大好き!』の巧妙な物語構造と驚くべきキャラ配置については、エロゲー批評空間に投稿されたGore Screaming Show氏の批評を参照して欲しい。

ttps://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=6467&uid=Gore+Screaming+Show

大江健三郎『燃えあがる緑の木』解説~喜びを抱け、人間は破壊されない~

さらに私の耳にはいまも私たちみなが未来に向けて唱和した言葉が鳴っているのだ。

 ーRejoice!(第三部p.412)
 
『燃えあがる緑の木』の作中では、“Rejoice!”という言葉が愛唱されます。新潮文庫版『燃えあがる緑の木』の表紙にも、“Rejoice!”とデカい字で書いてあります。今回は“Rejoice!”という言葉の意味を考察し、『燃えあがる緑の木』解説を締めくくろうと思います。
 

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『燃えあがる緑の木(全三部)』
1997~1998年初版発行
 

“Rejoice!”の意味

 
『燃えあがる緑の木』の作中で、“Rejoice!”という言葉には多様で深遠な意味があります。
 
・喜びを抱け!
 
“Rejoice!”というのは実在するアイルランドの詩人・イェーツの詩(『螺旋』という題名らしい)に出てくる言葉で、和訳すると「喜びを抱け!」という意味があります。ギー兄さんの教会では、人々が「喜びを抱け!」という命法を朗唱しているわけですな。
 

  f:id:amaikahlua:20191121104302p:plainイェーツ(1865~1939)

私はカードに書き写したイェーツの詩行を事務所の机の前の窓枠にピンでとめる習慣になっていた。(中略)《なんということがあろう?洞穴から聞えてくるひとつの声/それが表わす言葉はただひとつのみ、喜びを抱け!》(第二部p.34)
 
・なぜ、喜びを抱かなければならないのか?
 
さて、『燃えあがる緑の木』では、なぜ喜びを抱くことが命令形で推奨されているのでしょうか。ザッカリーは第二部で、喜びはその人が意味のある人生を送った証拠だという話をしています。また、K伯父さんは第二部で、深いところで〈永遠〉や〈全体〉に繋がる感情として喜びを語っています。喜びは人間の生を語るうえで重要な役割を担っているので、『燃えあがる緑の木』の作中では「喜びを抱け!」としょっちゅう言われているのだと私は解釈しています。
 
・人間存在の破壊されえないことの顕現
 
で、ここからが本題になるんですが、“Rejoice!”という言葉には、「人間存在の破壊されえないこと」を確認するための挨拶という意味もあるみたいなんですね。
 
 私は、伊能三兄弟が挨拶するようにいう、やはり英語の“Rejoice!”ね。あれを聞くと、こう感じることがあるよ。伊能三兄弟は、人間存在の破壊されえないことをかれら式に確かめて、なにはともあれ、“Rejoice!”と呼びかけあっているんじゃないか……
 これがきっかけだったと思う、Rejoice!という呼びかけは、その後、単に伊能三兄弟のみの挨拶でなく、教会の集会に参加する若者たちが別れの挨拶として使うものにもなった。(第二部p.139)
 

  f:id:amaikahlua:20191121175651p:plainエリアーデ(1907~1986)

唐突に「人間存在の破壊されえないこと」とかいう聞き慣れない言葉が出てきましたが、これは実在する宗教学者ミルチャ・エリアーデの言葉です。*1バーべリオンというマイナーな知識人が古代の狩人にまつわる本を書いており、その本を読んだエリアーデは「人間存在の破壊されえないこと」に関する考察を深めました。
 
後期の大江健三郎は、エリアーデが書いた『永遠回帰の神話』などをよく読んでいました。大江のエッセイ集『小説のたくらみ、知の楽しみ』を読むと、後期の大江がエリアーデにメッチャ心酔していたことがよくわかります。エリアーデの「人間存在の破壊されえないこと」という言葉は、大江のお気に入りのようです。
 

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エリアーデは不運な生涯を送ったある知識人が、古代の狩人について書かれた本を読み、人間である自分の破壊されえぬことを啓示された、としているのへ注目して考えます。旧石器時代の人類の生き方においてすらも、ひとりの人間が生きているということ、生きたということは、取り消されえぬ。そこから光をみちびいて見れば、現代のいかに悲惨な生にしても、当の個人の存在には、indestructibilityと呼ぶほかにないものがある(新潮文庫『小説のたくらみ、知の楽しみ』p.209)
 
大昔の旧石器時代の人間も、短命に終わった人間も、大江光のように障害を持った人間も、みんな人間存在である。人間存在がこの世に生まれ・存在したという事実は、一旦この世に生まれ・存在した以上、取り消すことができないものだ。このような意味で、人間存在が生存したという出来事の消去不可能性を思い知らされる現象を、エリアーデは「人間存在の破壊されえないことの顕現」と呼びました。おそらく“Rejoice!”という言葉には、「人間の存在は永遠だ」という意味があるのだと思います。
 

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Eテレ「100分de名著」より
『燃えあがる緑の木』第三部終章でギー兄さんは投石を受けて死亡するのですが、サッチャンはギー兄さんの子供を妊娠します。こうやって、人間存在は受け継がれていくわけですな。『小説のたくらみ、知の楽しみ』を読んでいると、第三部で核が「怪物的な悪」として描かれた理由がよくわかるよね。大江は人類を滅ぼす核という悪に勝利し、人間存在の破壊されえないことの「顕現」を絵空事ではなく実際に浮かび上がらせようとしている。大江は後期から人間世界の存続を願うようになったから、核は敵なんでしょう。
 
 
…以上で、私の『燃えあがる緑の木』解説はとりあえず終了です。非常に文章量が多い記事を投稿してきましたが、予想以上の反響を頂戴したので本当に嬉しかったです。皆さん、読んで頂きありがとうございました。
 
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*1:「人間存在の破壊されえないこと」が「エリアーデの」言葉だというのは厳密に言うと微妙な語弊があるかと思いますが、本稿では文章のわかりやすさを重視してこう書いています。

大江健三郎『燃えあがる緑の木』第三部のあらすじと解説

今回は、大江健三郎の代表作『燃えあがる緑の木』第三部のあらすじと解説を掲載します。壮大な『燃えあがる緑の木』の物語は、この第三部で完結します。第三部は物語の起伏が激しく、なおかつメッセージ性にも富んでおり、ラストに相応しい内容でした。

 

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『燃えあがる緑の木 第三部 大いなる日に』
1998年初版発行
 
(注:今回の考察はちょっと長いです。興味が無いところは適当に読み飛ばして頂いてOKです。)
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