かるあ学習帳

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大江健三郎『燃えあがる緑の木』解説~喜びを抱け、人間は破壊されない~

さらに私の耳にはいまも私たちみなが未来に向けて唱和した言葉が鳴っているのだ。

 ーRejoice!(第三部p.412)
 
『燃えあがる緑の木』の作中では、“Rejoice!”という言葉が愛唱されます。新潮文庫版『燃えあがる緑の木』の表紙にも、“Rejoice!”とデカい字で書いてあります。今回は“Rejoice!”という言葉の意味を考察し、『燃えあがる緑の木』解説を締めくくろうと思います。
 

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『燃えあがる緑の木(全三部)』
1997~1998年初版発行
 

“Rejoice!”の意味

 
『燃えあがる緑の木』の作中で、“Rejoice!”という言葉には多様で深遠な意味があります。
 
・喜びを抱け!
 
“Rejoice!”というのは実在するアイルランドの詩人・イェーツの詩(『螺旋』という題名らしい)に出てくる言葉で、和訳すると「喜びを抱け!」という意味があります。ギー兄さんの教会では、人々が「喜びを抱け!」という命法を朗唱しているわけですな。
 

  f:id:amaikahlua:20191121104302p:plainイェーツ(1865~1939)

私はカードに書き写したイェーツの詩行を事務所の机の前の窓枠にピンでとめる習慣になっていた。(中略)《なんということがあろう?洞穴から聞えてくるひとつの声/それが表わす言葉はただひとつのみ、喜びを抱け!》(第二部p.34)
 
・なぜ、喜びを抱かなければならないのか?
 
さて、『燃えあがる緑の木』では、なぜ喜びを抱くことが命令形で推奨されているのでしょうか。ザッカリーは第二部で、喜びはその人が意味のある人生を送った証拠だという話をしています。また、K伯父さんは第二部で、深いところで〈永遠〉や〈全体〉に繋がる感情として喜びを語っています。喜びは人間の生を語るうえで重要な役割を担っているので、『燃えあがる緑の木』の作中では「喜びを抱け!」としょっちゅう言われているのだと私は解釈しています。
 
・人間存在の破壊されえないことの顕現
 
で、ここからが本題になるんですが、“Rejoice!”という言葉には、「人間存在の破壊されえないこと」を確認するための挨拶という意味もあるみたいなんですね。
 
 私は、伊能三兄弟が挨拶するようにいう、やはり英語の“Rejoice!”ね。あれを聞くと、こう感じることがあるよ。伊能三兄弟は、人間存在の破壊されえないことをかれら式に確かめて、なにはともあれ、“Rejoice!”と呼びかけあっているんじゃないか……
 これがきっかけだったと思う、Rejoice!という呼びかけは、その後、単に伊能三兄弟のみの挨拶でなく、教会の集会に参加する若者たちが別れの挨拶として使うものにもなった。(第二部p.139)
 

  f:id:amaikahlua:20191121175651p:plainエリアーデ(1907~1986)

唐突に「人間存在の破壊されえないこと」とかいう聞き慣れない言葉が出てきましたが、これは実在する宗教学者ミルチャ・エリアーデの言葉です。*1バーべリオンというマイナーな知識人が古代の狩人にまつわる本を書いており、その本を読んだエリアーデは「人間存在の破壊されえないこと」に関する考察を深めました。
 
後期の大江健三郎は、エリアーデが書いた『永遠回帰の神話』などをよく読んでいました。大江のエッセイ集『小説のたくらみ、知の楽しみ』を読むと、後期の大江がエリアーデにメッチャ心酔していたことがよくわかります。エリアーデの「人間存在の破壊されえないこと」という言葉は、大江のお気に入りのようです。
 

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エリアーデは不運な生涯を送ったある知識人が、古代の狩人について書かれた本を読み、人間である自分の破壊されえぬことを啓示された、としているのへ注目して考えます。旧石器時代の人類の生き方においてすらも、ひとりの人間が生きているということ、生きたということは、取り消されえぬ。そこから光をみちびいて見れば、現代のいかに悲惨な生にしても、当の個人の存在には、indestructibilityと呼ぶほかにないものがある(新潮文庫『小説のたくらみ、知の楽しみ』p.209)
 
大昔の旧石器時代の人間も、短命に終わった人間も、大江光のように障害を持った人間も、みんな人間存在である。人間存在がこの世に生まれ・存在したという事実は、一旦この世に生まれ・存在した以上、取り消すことができないものだ。このような意味で、人間存在が生存したという出来事の消去不可能性を思い知らされる現象を、エリアーデは「人間存在の破壊されえないことの顕現」と呼びました。おそらく“Rejoice!”という言葉には、「人間の存在は永遠だ」という意味があるのだと思います。
 

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Eテレ「100分de名著」より
『燃えあがる緑の木』第三部終章でギー兄さんは投石を受けて死亡するのですが、サッチャンはギー兄さんの子供を妊娠します。こうやって、人間存在は受け継がれていくわけですな。『小説のたくらみ、知の楽しみ』を読んでいると、第三部で核が「怪物的な悪」として描かれた理由がよくわかるよね。大江は人類を滅ぼす核という悪に勝利し、人間存在の破壊されえないことの「顕現」を絵空事ではなく実際に浮かび上がらせようとしている。大江は後期から人間世界の存続を願うようになったから、核は敵なんでしょう。
 
 
…以上で、私の『燃えあがる緑の木』解説はとりあえず終了です。非常に文章量が多い記事を投稿してきましたが、予想以上の反響を頂戴したので本当に嬉しかったです。皆さん、読んで頂きありがとうございました。
 
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*1:「人間存在の破壊されえないこと」が「エリアーデの」言葉だというのは厳密に言うと微妙な語弊があるかと思いますが、本稿では文章のわかりやすさを重視してこう書いています。