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『大逆転裁判1&2』感想と考察~世界を変えた「冒険と覚悟」~

私は前回、自分は間違っていないのに世界が間違っているのならば、世界を変える必要がある」という議題について書いた。しかし、世界を変えるために自分の心を入れ替えなければならない場合はあるし、世界を変革しているうちに自分が変わっていく場合もある。そこで重要になってくるキーワードが、『大逆転裁判1&2』の副題である「冒険と覚悟」だ。
 

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大逆転裁判1&2 成歩堂龍ノ介の冒険と覚悟』
 

祖先による冒険と覚悟

大逆転裁判1』の第五話で、スリの少女ジーナ・レストレードは、「世界を変えるために自分を変える」決意をする。ジーナは逆転裁判シリーズ歴代の被告人の中でも、けっこう後ろ暗い経歴を持つ少女である。そのためジーナは潔白ではなく、「自分を変える」必要があったのだ。自分がおかしく、世界もおかしいのならば、自分も世界も変える必要がある。
 

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ジーナ「弱い者が、ヒドい目にあう‥‥いつものことじゃない。」
ナルホド「‥‥ジーナさん‥‥」
ジーナ「‥‥‥‥でもね。今日、ちょっと、わかった気がするんだよ。そんな、ヒドい世の中が変わってほしいと思ったら‥‥まず、自分が変わらなきゃいけないんだな‥‥って。
 
「世の中を変えるためには、まず、自分を変えなければならない」というジーナの発言には、「世界を変えるためには自分の覚悟が必要だ」という含みがあると思う。逆転裁判6』でも『大逆転裁判1&2』でも、腐敗した世界を変える「革命」が描かれる。世界を本気で覆すためには、その前提として、大きな覚悟が要求されるだろう。今までの日常から一歩先に踏み出し、温室から離れて危険を冒す覚悟が、革命家たちには求められるのだ。
 

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大逆転裁判1&2』は、主人公・成歩堂龍ノ介の冒険と覚悟の物語である。龍ノ介は危険を冒してイギリスに渡航し、イギリスで大勢を敵に回す覚悟で被告人を弁護した。日本では頼りない学生だった龍ノ介は、イギリスで冒険しているうちに立派な弁護士に成長していく。龍ノ介は「世界を変える」戦いをしているうちに、意識的にも無意識的にも「自分を変える」経験を積み重ねていく。龍ノ介は明治時代の日本人であり、成歩堂龍一の祖先でもある。祖先の冒険と覚悟によって、歴史は作られていったのだ。
 

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唐突だが、私は人類で初めてナマコを食った人物を尊敬する。なぜなら、ナマコを初めて食うには非常な冒険と覚悟が要求されるからだ。まず、見た目が怪しげなナマコという生物を捕獲し、料理するのはかなりの冒険だと思う。そして、体に悪い可能性があるナマコを食うのは、相当な覚悟が必要な行為だったはずだ。どうしていきなりこんな変な話をしたかと言うと、私たちの現在の食生活や文明などは、祖先の冒険と覚悟の積み重ねによって成り立っている」と私は言いたいからだ。
 

失われた冒険と覚悟

私たちの豊かな現代社会は、祖先の冒険と覚悟のおかげで築かれたものだ。しかしその一方で、今の社会は先人によって踏破されきっていて、「冒険と覚悟」がちょっとした死語になっているという話がある。なにせ地球上のあらゆる場所はグーグルアースによって観測できるし、祖先によって多くの危険の芽は摘まれてしまっている。だから、現代人は冒険や覚悟をする機会に恵まれていないのだ。ここで大江健三郎の「性的人間」を引用しよう。
 

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そもそも現代は、冒険家たちにとってめぐまれた時代ではないだろう。宇宙ロケットに乗りこんだあとメーターをすべて自己流に動かしてしまうといった凄まじい勇気をもつ男以外には。人間たちは二千年来よってたかって、この世界を総ゴム張りの育児室につくりかえた、すべての危険は芽のうちにつんで!*1
 
最近、逆転裁判シリーズのラスボスについて考察する、興味深い記事を発見した。この方の記事では、逆転裁判6のラスボスが外国人で・『大逆転裁判2』のラスボスが過去の人物で・『レイトン教授VS逆転裁判のラスボスが異世界の住人であることが指摘されている。危険の芽が摘まれた現代日本社会が舞台のままでは、倒し甲斐のあるラスボスを毎回用意するのは難しい。そのため割と最近の逆転裁判シリーズでは、物語の舞台を現代日本ではない「異界」に設定し、異界の強敵をラスボスに設定する必要があったと推測できるわけだ
 
ここまで考えると、2010年代になってから「異世界転生」が大流行している理由が朧気にわかる気がする。現代日本社会では安全性が重視されており、今の日本人には冒険や覚悟をする機会が満足に与えられていない。冒険するためにはありふれた日常から一歩先に進まなければならないのだが、現代日本社会は分け入っても分け入っても終わりなき日常だ。冒険を求める日本人には日常からかけ離れた異世界を提供し、強敵と決闘したい日本人にはゲームの中にしか存在しえないラスボスを用意しよう。このような事情や要請があるため、ゼロ年代の「日常系」はテン年代の「異世界転生」にシフトしたのではないだろうか。
 

蘇る冒険と覚悟

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さて、ここまで考えると、「成歩堂龍ノ介の冒険と覚悟なんて、大昔の明治時代の話じゃん?令和の現実の日本で冒険と覚悟なんてやってられねーよ」と思われる方が出てきてもおかしくない。しかし、「冒険と覚悟」という言葉は、令和の現実の日本でも完全に死滅したわけではないと思う。
 
例えば、交通事故に遭う危険を冒しながらトラックを運転する仕事をするのは、ちょっとした冒険だろう。そして、高いところから落ちる危険が伴う大工の仕事をするのには、人によるとは思うけれど、それなりの覚悟が必要だろう。クレーマーに怒られる危険を冒してレジに立つ仕事をするのも、ささやかな冒険と覚悟だと思う。「冒険と覚悟」という言葉は最早大袈裟かもしれないが、令和の日本社会でも活躍するためには、地味だとしても何らかの賭けが必要になるのではないだろうか。
 
大逆転裁判1&2』は、現代人が見失いがちな冒険と覚悟によって、世界を覆した古き良き日本人の物語である。たとえ地味だとしても冒険と覚悟が必要になったときは、成歩堂龍ノ介のことを思い出して欲しい。きっと、前に進む勇気を貰えるはずである。

*1:大江健三郎『性的人間』、新潮文庫、一九六八?、八〇頁。そう言えば『逆転裁判5』では、宇宙ロケットに乗り込む男が登場した!