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『キュレムVS聖剣士ケルディオ』批評~ゲーム外の敗者~

ポケモン映画キュレムVS聖剣士ケルディオ(以下『ケルディオ』)を観て、私は大きな衝撃を受けました。
 
ケルディオ』はポケモン映画15周年記念作品であり、小学館創業90周年記念企画です。ポケモン映画5周年記念作品『水の都の護神』、10周年記念作品『ディアルガVSパルキアVSダークライ』、20周年記念作品『キミにきめた!』は、いずれもファンのニーズに手堅く応えた良作でした。しかしこの『ケルディオ』は違います。ケルディオは15周年記念作品でありながら、ポケモンというコンテンツの王道を逸脱した、挑戦的な作品だったのです!
 

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監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)2012 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★☆☆(問題作。15周年でこれをやった度胸は評価したい)
 

逸脱のクリティカル・ポイント

ケルディオ』は、ポケモンという巨大商業コンテンツの伝統や定石を逸脱する異常な作品でした。私は特に以下の4つのポイントを挙げ、『ケルディオ』という作品の特異性を強調したいと思います。
 
・ポイント1:「人間中心」ではなく「ポケモン中心」の脚本

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ケルディオ』では、人間社会の事情ではなく野生のポケモン世界の事情が主題的に描かれています。主役ポケモンケルディオは未熟なポケモンですが、伝説のポケモンキュレムに戦いを挑み、一人前の「聖剣士になろうとします。ケルディオ』の物語は「一人前の聖剣士になりたい」というケルディオの闘志によって牽引されており、人間であるサトシ達はケルディオの冒険をサポートする脇役だと言っていい。
 
ケルディオ』は、人間主体のストーリー展開に良くも悪くも反旗を翻した作品です。映画の冒頭ではケルディオの修行と挫折が描かれ、途中まではサトシ達が一旦物語の主導権を握るものの、後半の見せ場はキュレムケルディオの真剣勝負。人間の介入はお断りなのです。主人公であるサトシの見せ場がここまで無い映画は、同時上映を除くと『ケルディオ』ぐらいなもんでしょう。
 
・ポイント2:徹底化された「悪役」の除外

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ケルディオ』には、「悪役」が登場しません。サカキやジラルダンやビシャスのような、強大な人間の悪者が登場しないのです。キュレムはかなり容赦無い性格のポケモンですが、悪者だとは言い難い。さらに驚いた事に、ロケット団のムサシ・コジロウ・ニャースが、物語に全く絡みません。それどころか、ムサシ・コジロウ・ニャースは、作中で一言も喋らないのです。やな感じーっ!」とすら言わない(笑)。
 
ケルディオ』では、人間の了見で決められた善悪が、物語の主軸に介入しません。この映画の見所は人間の介入を許さないポケモン同士の了見の激突であり、人間の悪意を描くのはこの映画の狙いじゃないんだろうなあと思います。また、作中で登場するコバルオンテラキオンビリジオンケルディオの師匠であり、正義の心を持っています。ケルディオ』では正義の心は描かれるんだけど、悪意が極力描かれない。その結果、汚い心を排除した純粋な魂の決闘を描く事には一応成功している思うんだよな。
 
・ポイント3:パワーアップした主人公が負ける

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まさかの敗北。うせやろ…?こんなことってあるんか…?
この映画の終盤では、ケルディオが「かくごのすがた」にパワーアップし、キュレムと一騎打ちに臨みます。その結果、どうなったかと言うと……なんと負けます。この展開は、平成仮面ライダースーパー戦隊をよく観た経験のある視聴者なら、信じられないと思います。平成仮面ライダースーパー戦隊では、主人公のヒーローが新しい姿にパワーアップしたり、新しい合体ロボが初登場したりした時は、ほぼ100%味方が勝ちます。しかしケルディオ』では、新しい姿にパワーアップした主役が敗北するとかいう、まさかの展開です。
 
汚い話をすると、特撮ヒーローは子供番組とは言え商業作品ですから、変身ベルトや合体ロボなどの新商品を売らなければなりません。そのため、新しく登場したヒーローやロボットには、大抵の場合販促のために勝ってもらう必要があります。ポケモン映画にも勿論販促要素はあって、当時『ケルディオの前売り券を買うと、ケルディオのゲームデータが貰えたそうです。ケルディオのゲームデータの価値を上げることを考慮すると、映画の作中でパワーアップしたケルディオは勝った方が良い気がするのですが、負けました。
 
この映画、作中で人間の悪意が極力描かれていないのに加えて、販促を企む汚い大人の事情にも染まりきっていない映画なんだよ。実にクリーンな映画だと思わないかい?w
 
・ポイント4:「敗北しても成長する」という異形のメッセージ

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この映画に登場するコバルオンは、戦いに敗北してもそこから何かを学ぶ事が大切である」という思想を持っています。そして主役のケルディオは、キュレムとの戦いに敗北します。しかしケルディオキュレムと戦っているうちに仲間の大切さを知り、一人前の聖剣士になります。戦いに勝利する事だけが成長に繋がるとは限らない。時には敗北して大きく成長する場合もある。筋は通っているし、けっこう良い話ではありますね。
 
しかし、「敗北しても成長する」という思想をポケモンという媒体でやっても良いのだろうか?と私は不安になりました。ポケモンの原作ゲーム(ポケモン赤緑ポケモン剣盾など)は基本的に、「相手のポケモンを倒して経験値を得て、自分のポケモンを成長させるゲーム」です。原作のゲームでは主人公が人間で、味方のポケモンが勝利したら経験値が入って、敗北したら経験値が入らないシステムになっています。しかし『ケルディオでは人間の支配から独立したポケモンが敗北したけど、一回り大きく成長するとかいう結末になっていました。この映画は、原作のゲームではろくに描けない形の成長を描いた作品なのです。
 

ラストの解釈

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ケルディオ』のラストでは、ケルディオとの戦いに勝利したキュレムが、洞窟の中へと静かに帰っていきます。キュレムはレシラムとゼクロムの遺伝子を併せ持つ最強のポケモンですが、住み処の外に出たり屋外の生物と馴れ合ったりするのには向いてないと思うんですね。一方キュレムとの戦いに敗北したケルディオは、仲間の大切さを知り成長します。ケルディオは実力ではキュレムに勝てなかったのですが、他者との強い絆を結ぶ事ができるようになりました。
 
キュレムケルディオの関係は、『ミュウツーの逆襲』におけるミュウツーニャースの関係に似ていると思いますね。ミュウツーキュレムみたいに優秀な遺伝子を持つエリートなんだけど、ミュウツーには社会性が足りない。一方ニャースは進化や技の習得と引き換えに言語能力と二足歩行を獲得した苦労人で、豊かな社会性がある。キュレムミュウツーは生まれつき優秀だけど社会性が無くて、ケルディオニャースは努力家で社会性を身に付けるに至った。
 
ケルディオは自分の遺伝子の優秀さのような「個」としての強さではなく、仲間と協調する「集団」としての強さに辿り着いたポケモンだと思います。1人よりも2人、2人よりも3人、3人よりも4人」という『ケルディオ』のラストは、「個」としての強さとは違った強さの形を描いていたという点では、良い結末だったと思います。
 

ケルディオ』低評価の嵐

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では、要点をまとめます。ケルディオ』は、ポケモンというコンテンツの常識から逸脱した問題作です。人間ではなくポケモンが主体であり、悪役が存在しない、野生ポケモン同士の純粋な決闘が描かれた作品です。そして主役のケルディオが敗北し、敗北から学んで成長するという、珍しい成長の形も描かれています。主人公の人間がポケモンを捕獲し、人間の支配下に置かれたポケモンが敵に勝利して成長する」という原作ゲームのコンセプトの〈外部〉に存在する、敗北者ケルディオの成長物語でした。
 
ちなみにこの『ケルディオ』、ネットでの評判がとても悪い映画です。匿名掲示板のつまらなかったポケモン映画を挙げるスレとかでは、ケルディオ』がよく筆頭に上げられます。『ケルディオがなぜ駄作なのかを詳しく説明する動画が、ようつべに上げられていたりもする。まあ、仕方無いとは思いますよ。だってこの映画、ポケモンというコンテンツに対する受け手の期待に全然応えてないもんwそれどころか、この映画は受け手の期待を悪い意味で裏切りまくるベクトルを志向してるからね。
 
でも、この映画で描かれた純粋な決闘や、大人の商業戦略に染まらない意外な結末が、私は好きですよ。ポケモン映画という国民的商業アニメの媒体で、ここまで振り切った「純ブンガク」をやってしまった心意気は高く評価したいです。15周年でここまで挑戦的な作品を世に送り出した制作サイドの度胸は、もっと褒めてもいいんじゃないか、みんな???