かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『ミュウツーの逆襲』考察完全版~ニャースとは何者か~

amaikahlua.hatenablog.com

物語を考察する際に、物語の主役ではなく脇役に焦点を当てると考察がはかどる場合があります。例えば『千と千尋の神隠し』の主人公は千尋ですが、主役の千尋ではなく脇役のカオナシの行動に注目したら物語をより深く理解できると思います。カオナシ千尋の影のような存在なので。ミュウツーの逆襲』の場合も、主役のサトシやミュウツーではなく脇役のニャースに注目することにより、考察を深めることができるというのが私の持論です。

 

f:id:amaikahlua:20210107123328j:plain

ミュウツーの逆襲』
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト98
1998年7月18日公開
 

戦わないニャース

 
ミュウツーの逆襲』の終盤では、ミュウツーをはじめとするコピーポケモンとミュウをはじめとするオリジナルポケモンが、自己の存在を賭けた痛々しいバトルを繰り広げます。しかし、オリジナルのニャースとコピーのニャースだけは、戦わずにのんびりと月を眺めます。なぜ他のポケモンが争っているのに、ニャースだけは争わないのでしょうか?とりあえず、脚本家の首藤さんのコラムを引用します。
 

f:id:amaikahlua:20210107123541j:plain

 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。
 自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?
 なんとなくロケット団ニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。
 「今夜の月は満月だろな…」
 自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団ニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観ることができる。
 達観諦観わびさびの世界のようなものである。
 

ニャースが得たものと失ったもの

 
TVアニメ版ポケモンの第72話「ニャースのあいうえお」では、オリジナルのニャースが人間になりたかった理由が明かされています。
 

f:id:amaikahlua:20210107123806j:plain

(画像:第72話「ニャースのあいうえお」より)

ニャースはメスのニャースである「マドンニャ」のことが好きになり、マドンニャが好きな人間になるために人語や二足歩行を習得する訓練をします。しかし、ニャースは人語や二足歩行を習得した代償として、進化や新しい技の習得ができなくなります。ニャースはマドンニャに告白しますが、「人間の言葉をしゃべるポケモンは気持ち悪い」という理由で振られます。その後、グレたニャースロケット団に入団します。*1
 
ここまでの説明で、オリジナルのニャースが人語や二足歩行を努力によって「後天的に」身に付けたことがおわかりいただけたかと思います。このことは、誕生したばかりのコピーのニャースが人語をしゃべることができず、二足歩行もできないことからも推測できます。
 

生まれつきの諦観

 
首藤さんのコラムの言葉を借りれば、オリジナルのニャースには「諦観」があるという。「諦観」や「達観」というのは、「悟りの境地」といった意味の言葉です。オリジナルのニャースが諦観を人語や二足歩行と同じく後天的に身に付けたかというと、そうとは言いきれないと考えられます。
 

f:id:amaikahlua:20210107124400p:plain

ミュウツーの逆襲』に登場するコピーのニャースは、コピーとして誕生したばかりなのにオリジナルのニャースに戦いを挑みません。ですので、コピーのニャースには生まれつき「戦いに対する諦観」が備わっていることになります。オリジナルのニャースには生まれつき「戦いに対する諦観」が備わっていて、その諦観がコピーのニャースにも遺伝した可能性が高いです。*2
 

f:id:amaikahlua:20210107124546j:plain

(画像:映画『ピチューピカチュウ』より)

オリジナルのニャースは生まれつき「先天的に」諦観を持っている可能性が高いと思いますが、それに加えて経験によって「後天的にも」諦観を身に付けた存在だと思います。オリジナルのニャースロケット団の業務をしたり、アルバイトをこなしたりします。オリジナルのニャースは人語や二足歩行を習得したことにより、人間社会に参加できる社会性を身に付けました。ですからオリジナルのニャースは、「後天的にも」他者と上手くやっていくための諦観を身に付けたと考えられます。
 

「去勢」されたポケモン

 
精神科医斎藤環さんが書いた『社会的ひきこもり』という本があります。この本には、こんなことが書いてありました。
 

f:id:amaikahlua:20210107125320j:plain

まず「去勢」について簡単に説明しておきます。(中略)精神分析において「ぺニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。*3
 
ニャースは成長の途中で、マドンニャという異性との関わりを通じて、人間や本来のポケモンになることに失敗しました。精神分析用語を借りれば、ニャースは「去勢」されたポケモンだと言えますね。また、『社会的ひきこもり』には、続けてこう書いてありました。次の文言は、『ミュウツーの逆襲』ニャースミュウツーを考察するのにとても役に立ちます。
 
 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。*4
 
ニャースは「去勢」されており、人間社会に参加できるので大人です。ニャースは挫折を経験して社会性を身に付けており、そのうえで自分の身の振り方を悟っているのでしょう。「去勢」されて成熟していることが、ニャースの「諦観」や「達観」を発達させているんだと思います。
 
一方、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーは万能の存在であり、明らかに「去勢」されていません。ミュウツーは、能力に恵まれているために社会性に欠けるエリートそのもののような存在です。ミュウツーは何の苦労もせずに人語や二足歩行を習得しており、強力な技も使えるのでニャースの上位互換のように思えますが、人間の社会に要領よく溶け込める存在ではないと思います。
 

f:id:amaikahlua:20210107125841j:plain

ミュウツーニャースのように悟っていないので、「私は誰だ?」と悩むことになるのだと思います。もしかしたら、ニャースのほうがミュウツーよりも精神年齢は上かもしれませんね自分探しのまっただ中にいるミュウツーは、頭が良くても精神年齢は意外と思春期の少年ぐらいかもしれない。ミュウツーの逆襲』の続編である『ミュウツー我ハココニ在リ』は、そんなミュウツーの成長物語だといえます。
 

補説:首藤さん、これでいいんですか?

 
さて、ここまでの考察を踏まえて、冒頭で引用した首藤さんのコラムをもう一度読んでみましょう。
 
 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 
首藤さんは明言していませんが、首藤さんのコラムを読んだ限り、首藤さんは「オリジナルのニャースの諦観はあくまでも後天的に身に付けたものだ」と考えているように(私には)少し感じられます。
 

f:id:amaikahlua:20210107130105p:plain

ところが『ミュウツーの逆襲』を鑑賞すると、オリジナルのニャースもコピーのニャースも、ある程度先天的に諦観を身に付けていると解釈できます。また、作中ではコピーのニャースがオリジナルのニャースよりも先に空を見上げているし、「今夜の月は丸いだろう」と先に言ったのもオリジナルのニャースではなくコピーのニャースのほうです。
 
ミュウツーの逆襲』でオリジナルのニャースとコピーのニャースが戦闘をしない場面は、首藤さん本人が考えていることと微妙にズレている気がします。あるいは、首藤さんのコラムの書き方が、首藤さん本人の思考から微妙にズレているのかもしれない。首藤さんは故人ですから事の真相は藪の中ですが、「首藤さん、これでいいんですか?」と私は少し思います。
 
〈関連記事〉
今回の記事は、以下の2つの記事の内容を合体させた完全版です。
 
また、『ミュウツーの逆襲』『ミュウツー!我ハココニ在リ』とTV版エヴァンゲリオンをまとめて論じた記事をここに掲げます。自信作ですので、良かったら読んで頂きたく。

*1:画像の出典と参考:「ニャースのめっちゃ泣ける過去とロケット団に入った理由」

*2:オリジナルのニャースには先天的な「戦いに対する諦観」が備わっていなかったが、コピーのニャースに突然変異で「戦いに対する諦観」が発現したという可能性も考えられると思います。しかし、この可能性はあまり高くないかもしれません。

*3:斎藤環『社会的ひきこもり』、PHP新書、1998年、二〇六頁。

*4:Ibid.