大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』感想や解説みたいなもの
『M/Tと森のフシギの物語』
2014年9月17日発行
河合隼雄(1928~2007)
母性はすべてのものを全体として包みこむ機能をもつのに対して、 父性は物事を切断し分離してゆく機能をもっている。*1
河合隼雄によれば、母性は「全体として包む」性質である一方、 父性は「個々に切断する」性質であるという。 父母や性別の在り方が大きく考え直されている令和の日本で、 河合隼雄のこの説を振り回すのは危険すぎると思う。しかし、 私が目する限り、大江健三郎の小説を解読する際には、 河合隼雄の「母性/父性」の区別は優れた補助線になると思う。 そのため、今回の私は敢えて河合隼雄の区別を採用する。 みんな許してくれ。
岩波文庫版や講談社文庫版で小野正嗣が解説している通り、『M/ Tと森のフシギの物語』(以下『M/T』) は母性的な小説である。『M/T』 では祖母や母親が語る物語が軸になっており、 作中でメイトリアークと呼ばれる女族長が活躍する。『M/T』 は、「優しく包む」子宮の愛に満ちた小説である。『M/T』 の作風は、「厳しく切断する」父性的な原理に満ちた「飼育」 の作風とは対照的だ。
「飼育」の主人公「僕」は黒人兵の男に裏切られ、 さらに父親によって鉈で左手を破壊され、 子供から大人へと成長していった。つまり「飼育」では、 父親が息子を文字通り切断し、 子供を想像的なユートピアから追放する厳しい導き手を演じている わけだ。しかも「飼育」には、「僕」の母親が登場しない。「 飼育」は母性的な原理が不在で、 代わりに子供を切断し大人にする父性的な原理が支配している。
「死者の奢り」は「飼育」よりも前に公表された小説である。 しかし「死者の奢り」は、「飼育」 よりも後の時代と主題を表現している。「飼育」 の主人公は戦時中の少年で、「死者の奢り」 の主人公は戦後の青年である。「飼育」 の主人公は父親によって切断され、「死者の奢り」 の主人公は意識や粘膜によって他人と断絶されている。「飼育→ 死者の奢り」は、人間が他人から区別されてはっきりとした「個」 になるまでの過程を描いた一連の作品として読めるだろう。
人間は成長するにつれて個を確立するにしても、 みんな幼児段階では他者と未分化だったはずだ。『M/T』 では子供の「僕」が祖母から村の創世神話を聞き、 物語の舞台が大江文学の「原点」に回帰している。つまり『M/ T』は、人間を個に導くのではなく、 逆に全体や始源へと帰還させるのだ。そのため『M/T』には、「 懐かしさ」や「実家のような安心感」が感じられる。特に「僕」 の母親が語る「森のフシギ」は、懐かしさに満ちている。
私が考えたのか、夢で教えられたのか、私らはもともと「 森のフシギ」のなかにあったのじゃないかしらん、と…… 私らはいま、 ひとりひとり個々のいのちであることを大切に思うておるが、「 森のフシギ」のなかにあった時には、 それぞれ個々のいのちでありながら、しかもひとつであった。 大きい、懐かしい思いに充ちたりておった。ところがある時、 私らは「森のフシギ」のなかから外へ出てしもうた。 ひとりひとり個々のいのちであるから、 外へ出てしまうともうバラバラに、 この世界のなかへ生まれ出てしもうた…… そういうことじゃなかったろうか、と思うたのでしたが!(p. 402)
この母親の物語から、「森のフシギ」は村の住人を「 全体として包む」母性的な原理であることが読み取れる。 村の住人はもともと個別の命を持ちつつ、「森のフシギ」 に全体として包摂されていた。みんな「森のフシギ」に「 包まれつつ」、同一の「森のフシギ」の仲間として全てを「 包んで」いた。「森のフシギ」はその名の通りフシギな原理で、「包まれる」ことと「包む」ことが両立する「場の論理」が妥当すると言えるだろう。
哲学者の池田善昭は「包まれつつ包む」論理を、有機システムを場とする「場の論理」と名付けた。*2場の論理は、受精卵や樹木のように原始的な表象を想起させる。 例えば母胎の中では、どの細胞ももともと一つの受精卵に「 包まれて」いる。そして個々の細胞が分化しても、 それぞれの細胞は一つの受精卵から継承した遺伝情報を「包み」 続けるため、 引き続き同一情報を持つワンセットとして把握できる。また、 例えば森の中の一本一本の樹木は森全体に「包まれて」いて、 尚且つ周囲の環境を年輪に刻んで「包んで」いる。 包まれ方包み方に厳密に言えば差異があるものの、 自然現象からは「包まれつつ包む」原理が観測されるのだ。
全体に「包まれて」いる個が全体を「包む」。 話が少し横道に逸れるけれども、この「包まれつつ包む」 場の論理は、「森のフシギ」 や受精卵や樹木のような自然現象に留まらず、 哲学にも見られるものだ。池田善昭は、「包まれつつ包む」 場の論理がライプニッツのモナド論、ハイデガーの時間論、 西田幾多郎の『自覚における直観と反省』 にも通底していることを明らかにした。 全体の内部の個体が全体を反映しているという現象は、 様々な文脈、様々な視点から見出されている。