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大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』感想や解説みたいなもの

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『M/Tと森のフシギの物語』

2014年9月17日発行
 

f:id:amaikahlua:20220124182221p:plain河合隼雄(1928~2007)

 母性はすべてのものを全体として包みこむ機能をもつのに対して、父性は物事を切断し分離してゆく機能をもっている。*1
 
河合隼雄によれば、母性は「全体として包む」性質である一方、父性は「個々に切断する」性質であるという。父母や性別の在り方が大きく考え直されている令和の日本で、河合隼雄のこの説を振り回すのは危険すぎると思う。しかし、私が目する限り、大江健三郎の小説を解読する際には、河合隼雄の「母性/父性」の区別は優れた補助線になると思う。そのため、今回の私は敢えて河合隼雄の区別を採用する。みんな許してくれ。
 
岩波文庫版や講談社文庫版で小野正嗣が解説している通り、『M/Tと森のフシギの物語』(以下『M/T』)は母性的な小説である。『M/T』では祖母や母親が語る物語が軸になっており、作中でメイトリアークと呼ばれる女族長が活躍する。『M/T』は、「優しく包む」子宮の愛に満ちた小説である。『M/T』の作風は、「厳しく切断する」父性的な原理に満ちた「飼育」の作風とは対照的だ。
 
「飼育」の主人公「僕」は黒人兵の男に裏切られ、さらに父親によって鉈で左手を破壊され、子供から大人へと成長していった。つまり「飼育」では、父親が息子を文字通り切断し、子供を想像的なユートピアから追放する厳しい導き手を演じているわけだ。しかも「飼育」には、「僕」の母親が登場しない。飼育」は母性的な原理が不在で、代わりに子供を切断し大人にする父性的な原理が支配している。
 
「死者の奢り」は「飼育」よりも前に公表された小説である。しかし「死者の奢り」は、「飼育」よりも後の時代と主題を表現している。「飼育」の主人公は戦時中の少年で、「死者の奢り」の主人公は戦後の青年である。「飼育」の主人公は父親によって切断され、「死者の奢り」の主人公は意識や粘膜によって他人と断絶されている。「飼育→死者の奢り」は、人間が他人から区別されてはっきりとした「個」になるまでの過程を描いた一連の作品として読めるだろう。
 
人間は成長するにつれて個を確立するにしても、みんな幼児段階では他者と未分化だったはずだ。『M/T』では子供の「僕」が祖母から村の創世神話を聞き、物語の舞台が大江文学の「原点」に回帰している。つまり『M/T』は、人間を個に導くのではなく、逆に全体や始源へと帰還させるのだ。そのため『M/T』には、「懐かしさ」や「実家のような安心感」が感じられる。特に「僕」の母親が語る「森のフシギ」は、懐かしさに満ちている。
 

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 私が考えたのか、夢で教えられたのか、私らはもともと「森のフシギ」のなかにあったのじゃないかしらん、と…… 私らはいま、ひとりひとり個々のいのちであることを大切に思うておるが、「森のフシギ」のなかにあった時には、それぞれ個々のいのちでありながら、しかもひとつであった。大きい、懐かしい思いに充ちたりておった。ところがある時、私らは「森のフシギ」のなかから外へ出てしもうた。ひとりひとり個々のいのちであるから、外へ出てしまうともうバラバラに、この世界のなかへ生まれ出てしもうた…… そういうことじゃなかったろうか、と思うたのでしたが!(p.402)
 
この母親の物語から、「森のフシギ」は村の住人を「全体として包む」母性的な原理であることが読み取れる。村の住人はもともと個別の命を持ちつつ、「森のフシギ」に全体として包摂されていた。みんな「森のフシギ」に「包まれつつ」、同一の「森のフシギ」の仲間として全てを「包んで」いた。「森のフシギ」はその名の通りフシギな原理で、「包まれる」ことと「包む」ことが両立する場の論理が妥当すると言えるだろう。
 

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哲学者の池田善昭は「包まれつつ包む」論理を、有機システムを場とする「場の論理」と名付けた。*2場の論理は、受精卵や樹木のように原始的な表象を想起させる。例えば母胎の中では、どの細胞ももともと一つの受精卵に「包まれて」いる。そして個々の細胞が分化しても、それぞれの細胞は一つの受精卵から継承した遺伝情報を「包み」続けるため、引き続き同一情報を持つワンセットとして把握できる。また、例えば森の中の一本一本の樹木は森全体に「包まれて」いて、尚且つ周囲の環境を年輪に刻んで「包んで」いる。包まれ方包み方に厳密に言えば差異があるものの、自然現象からは「包まれつつ包む」原理が観測されるのだ。
 

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全体に「包まれて」いる個が全体を「包む」。話が少し横道に逸れるけれども、この「包まれつつ包む」場の論理は、「森のフシギ」や受精卵や樹木のような自然現象に留まらず、哲学にも見られるものだ。池田善昭は、「包まれつつ包む」場の論理ライプニッツモナド論、ハイデガーの時間論、西田幾多郎の『自覚における直観と反省』にも通底していることを明らかにした。全体の内部の個体が全体を反映しているという現象は、様々な文脈、様々な視点から見出されている。
 
全体像が掴みにくく荒廃した現代では、「包まれつつ包む」場の論理が見えにくくなっている。令和の日本では個人個人の間で格差が生まれ、SNSではブロックやミュートによる断絶が発生している。そして地球温暖化や環境破壊が進み、「森のフシギ」が危機に瀕している。人類はもともと皆兄弟であり、大自然の一部だったはずなのに。しかし『M/T』で表現された「懐かしさ」の感覚は、令和の日本人の精神世界でもまだ失効していないと信じたい。なぜなら現代の人間も、過去の人間に、歴史の人類に繋がっているのだから。

*1:河合隼雄中空構造日本の深層』、中公文庫、一九九九、五七頁。

*2:池田善昭『ライプニッツモナドジー」』、晃洋書房、二〇一一。