かるあ学習帳

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サルトル『嘔吐』考察や解説みたいなもの

『嘔吐』は、サルトルとかいう昔流行った文豪の代表作である。この小説は現実世界の偶然性を表現していることで有名なのだが、フィクションの必然性を表現した小説でもある。私の個人的な興味では、現実世界の偶然性よりもフィクションの必然性の方に惹かれた。異世界転生ブームや歌番組の高視聴率高再生回数から窺い知れるように、私たちは必然性を内包した冒険や音楽に惹き付けられているのだろうね。
 

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『嘔吐』

サルトル(鈴木道彦訳)
2010年7月20日発行
 

〈吐き気〉と偶然性

『嘔吐』の主人公は、アントワーヌ・ロカンタンとかいう三十歳の独身青年である。この小説で有名なのは、ロカンタンが公園に生えているマロニエの木の根を見て〈吐き気〉を感じる場面である。ロカンタンの〈吐き気〉は、〈私〉や世界が単に「存在している」だけであることが原因で発生する。そして存在する一つ一つの物は余計であり、必然的な存在理由が無いという。
 

f:id:amaikahlua:20220201183053p:plainジャン=ポール・サルトル(1905~1980)

私は〈吐き気〉を理解し、それを所有していたのだ。実を言うと、私は自分の発見を明確に言語化したわけではない。しかし今はそれを言葉にするのも容易に思われる。本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。(p.218)
 
存在する物には偶然性があるというロカンタンの説には、一応共感できる。この世の物事は思いがけずに発生し、因果関係が不明なまま存在を認められることが結構あるからだ(私たちよりも高次の視点から観測したら全ての物事には必然性があるのかも知らへんけど)。しかし、マロニエの木の根を見て〈吐き気〉を感じるという心理が何だか飛躍しているように感じられて、私には長いことよくわからなかった。私は最近ガブリエル&ジジェク『神話・狂気・哄笑』を読み、ロカンタンの心理をようやく把握できるようになってきた。
 

f:id:amaikahlua:20220201183358j:plainマルクス・ガブリエル(1980~)

もちろん、シェリングは、「自然」ということで、(我々の使う言葉の意味で)科学の対象を理解しているのではない。むしろ自然とは、『世界諸世代』における「超越論的過去」、つまり、未だ理性に拘束されない原初的存在を指示している。したがって自然とは、あらかじめ与えられているものではない。それは、なんらかの仕方で常にすでにそこに存在するのでありながら、〔それでいて〕絶対的な疎隔の、あるいは、実存的な不安(Angst)の原因そのものなのである。*1
 

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デューラーの「メランコリアI」は、サルトルに『嘔吐』への着想を与えたという
ガブリエルによれば、自然は「理性に拘束されない、原初的な存在」である。自然は私たちにとって身近に存在するものではあるけれど、私たちの理性によって未だに解明しきれないものとして隔絶されてもいる。謎に満ちた自然は私たちを不安にし、存在に関する憂鬱を喚起させるのだろう。自然の存在意義には曖昧さが伴うため、私たちを言語以前の混沌へと導くのだろう。そのため『嘔吐』におけるマロニエの木の根は常にそこにある自然でありながら、実存的な不安の原因でもあるというわけだ。
 

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そう言えばこの鈴木道彦訳の『嘔吐』もメイヤスーの『有限性の後で』も、両方とも人文書院から発行された本である。この人文書院とかいう出版社、「この世界はまったくの偶然で、別様の世界に変化しうる」ということを主張したがっている…ような気がする。
 

「冒険」と必然性

『嘔吐』では、〈吐き気〉の対極に位置する概念として「冒険」が提示される。ロカンタンにとって冒険は非日常的なものであり、冒険には始まりと終わりがある。ロカンタンによれば冒険は「本の中」にあり(つまり冒険はフィクションに過ぎないってことね)、ロカンタンはレコードで音楽を聴いている時に冒険しているような気分になる。ロカンタンは音楽を聴き、音楽の中に身を浸す時、〈吐き気〉を斥けることができる。
 

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小説の中の冒険物語やディスクの中の音楽には必然性がある。その必然性として、法則や規則によって始まりと終わりが決められているということが挙げられる。小説の中の冒険物語は本に印刷された時点でストーリー展開が決定されているし、ディスクの中の音楽も録音された時点で演奏内容が決定されている本やCDのようなメディアには、必然性がプログラムされているのである。*2
 
単調な日々の積み重ねである日常は偶然性を持ち、プログラムによって構成された冒険や音楽は必然性を持つ。そして偶然性はロカンタンを憂鬱にし、必然性はロカンタンを救済する。この世にはロカンタンのように退屈な日常や不条理な世界に耐えられない人間が大勢存在するだろう。偶然性に耐えられない人間を救済するのは必然性があるフィクションであり、冒険物語や音楽には単なる暇潰しのコンテンツ以上の存在意義があると考えられる。
 

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この写真素材の人、進撃の巨人読んでるw

令和の日本では本屋に行くと異世界が舞台のライトノベル冒険物語)が大量に発売されていて、異世界もののアニメやゲームも量産されている。そして紅白歌合戦みたいな音楽番組が今でもそれなりに高い視聴率を叩き出し、ヒット曲はようつべとかで何億回も再生されている。なぜ人々は冒険物語や音楽に惹き付けられるのか。私たちは現実の偶然性に耐えられないから、必然性がある冒険や音楽を求めるのかもしれない。そこまでの理由が無くても、冒険物語や音楽には多くの場合私たちを感動させる計画性があるから、私たちを惹き付けるのだろうと思う。
 
音楽を作る能力が無い状態で中年として生きるロカンタンは、偶然性に対抗するために冒険小説を書くことを決心する。私たちは冒険や音楽を受動的に鑑賞するだけでなく、冒険や音楽を能動的に創造することによっても偶然性に対抗できるわけだ。そしてロカンタンの不条理な日乗は『嘔吐』という物語として完結し、必然性がある冒険譚に昇華する。現実世界の偶然性を表現した『嘔吐』も所詮サルトルが書いた冒険物語なのであり、そうである以上必然性があるフィクションとして完結せざるを得ないのだろう。

*1:ガブリエル&ジジェク(大河内・斎藤訳)『神話・狂気・哄笑』、堀之内出版、二〇一五、一二二頁。

*2:音楽に詳しい人が『嘔吐』を読んだら、音楽に対する理解の解像度が荒いと思うような気がする。でも私は音楽の事情通ではないので、本稿では作中の音楽論を尊重して論を進める