かるあ学習帳

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『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』が描いた「地上波では放送できない純愛」の構造

『RIDER TIME 仮面ライダー龍騎は『仮面ライダー龍騎』の後日談で、『龍騎本編から17年後の2019年での殺し合いを描いた作品である。この『RIDER TIME 龍騎』は地上波では放送されず、ビデオパスでネット配信された。脚本を担当した井上敏樹さんは地上波では放送できないくらいのディープな世界」を志向したという。
 
この作品では男同士のベッドシーンが唐突に始まるので、ヲタク達は大きな衝撃を受けた。しかもこの強烈なベッドシーン以降の展開がボーイズラブドラマとして実に良く出来ていて、BL界隈に疎い私でも勉強になる内容だった。さらに後半では同性愛と異性愛を通じて「殺人による愛情表現」を開拓していて、これを観た後は地上波が物足りなくなるくらい性癖が破壊されるぞい、未視聴の人はツタヤとかで借りて観れ!。
 
(今回は内容がけっこう過激なので、BLとかに興味が無い人は気を付けてくれ!)

 

殺し合うという「愛情表現」

『RIDER TIME 龍騎』では、本編では封印された「ミラーワールド」とかいう鏡の中の世界が再び解放される。ミラーワールドには記憶喪失になった男達が招かれ、彼らの多くは17年前の本編にも参戦した人物である。男達は仮面ライダーに変身し、ライダー同士の殺し合いゲームで生き残った最後の1人だけがミラーワールドから脱出できる。今作でも相変わらず裏切りや復讐が描かれるのだけれど、男同士の濃密な愛も描かれているんですわ~(笑)
 

仮面ライダーライアに変身する手塚海之仮面ライダーガイに変身する芝浦淳は、男同士の肉体関係を結んでいた。この二人がどういう経緯で愛し合うようになったのかは不明だが、そもそも人間同士が愛し合うことに理由なんて要らないのかもしれない。作中では男のベッドシーンに加えてシャワーシーンも描かれていることから察するに、二人ともお盛んに愛し合ったんでしょうなw。それにしても……
 
なんで龍騎にベッドシーンがあんだよ
教えはどうなってんだ教えは
お前ら禁じられたベッドシーンを
平気で使ってんじゃねえか
分かってんのか!?
 
で、このベッドシーンから先の展開がクッソ面白かったし、よく考えてみるとBL展開にも必然性が感じられたので考察するで(^q^)
 
手塚と芝浦は仮面ライダー同士の殺し合いに巻き込まれているうちに、愛し合うようになった。しかし作中では、最後の一人が生き残るまでデスゲームは続行する。つまりこのままデスゲームが続いていれば、手塚と芝浦のうち少なくとも一人は必然的に死亡する。したがって手塚と芝浦の肉体関係は、避けられぬ破局に向かう悲劇的な愛なのだ。
 

芝浦「ハハハハ!」
手塚「何がおかしいんだよ?」
芝浦「いや、だってさ。殺し合うなんて、すっごい愛情表現じゃない?
手塚「本気で言ってんのか?」
芝浦「フッ、冗談だって。俺だってやだもん。あんたと殺り合うの。
 

手塚はタロット占いをした結果、「塔」のカードをドローした。「塔」のカードは「破滅」「悲劇」「精神崩壊」などを意味する。作中の男同士の肉体関係は滅亡を宿命付けられているのだが、それでも(それだからこそ?)手塚と芝浦は愛し合った。これは、心が痛くなるレベルで切ない話である。
 

手塚も芝浦も性格がひねくれている所があるので、二人は結局仮面ライダーに変身して殺し合うことになった。芝浦は手塚と殺し合いながら、彼の激しい愛情を表現した。二人ともかなり嫌な死に方をして退場したけど、二人の間には確かに純愛が芽生えていたと私は思う。性格が屈折した男同士の殺し合いの最中でも、純愛は成立する。そして殺し合いは、ある意味でセックスを超える愛情表現として成立するのである。
 

純愛の表象としての殺人

『RIDER TIME 龍騎』では、「男同士の殺し合い」だけでなく「殺人ゲームの開催」によっても純愛が表現されている。作中の現実世界で加納達也(アナザー龍騎は、集中治療室に入院している恋人・サラを蘇生させるために、殺人ゲームという名目で大勢の民間人を殺戮した。できるだけ多くの民間人を殺害して生け贄に捧げることにより、達也は愛する恋人を救おうとしたのだ。つまり現実世界の殺人ゲームが、彼女を想う彼氏の愛情表現として描かれているわけだ。
 

さらに入院しているサラのほうも、殺人ゲームによって愛情を表現していた。集中治療室で昏睡状態になっているサラの霊魂(?)はミラーワールドの内部を彷徨しており、虚像世界の住人となったサラのゴーストが作中のライダーバトル主催していた。そしてサラのゴーストはライダーバトルの勝者を見所のある英雄として選抜し、現実世界で暴走する達也を止めようとした。したがってサラも、虚像世界の殺人ゲームを主催することによって、彼氏(と民間人?)への愛情を表現していたのだ。
 
では、『RIDER TIME 龍騎』の物語構造を整理しよう。達也は瀕死の恋人を救済したいという愛情が原因で、現実世界の民間人を虐殺した。そして瀕死のサラの霊魂は虚像世界に転生しており、現実世界の彼氏を止められる仮面ライダーを選抜するための殺人ゲームを主催した。そして虚像世界の殺人ゲームの最中、芝浦は男同士の愛情を表現するために手塚と殺し合った。
 

『RIDER TIME 龍騎』の物語構造を俺なりに図示してみると上図のようになる。手塚と芝浦の同性愛は、虚像世界の内部で完結した純愛である。しかし達也は現実世界に・サラ(の霊魂)は虚像世界に対置され、愛し合う男女は分断されている。達也は現実世界で殺人ゲームを開催してサラへの愛情を表現し、サラは虚像世界で殺人ゲームを開催して達也への愛情を表現した。前回考察した『仮面ライダーセイバー』は現実世界と虚構世界の関係性を表現していたが、『RIDER TIME 龍騎ではまた別の形で現実と虚構の関係性が構築されているといえよう
 

諸君、おわかり頂けただろうか……。この作品は「殺人という愛情表現」の連鎖によって成り立っているのだ、ということを。避けられぬ破滅を招くほどに純粋な、純愛が物自体として、殺人という表象を具現化させているのである。
 

「地上波の制約」からの解放

『RIDER TIME 龍騎』は、地上波で放送したら顰蹙を買いそうな「殺人による愛情表現」に満ちた作品である。私はネット上で作品考察を続けているうちに、「地上波では放送できないくらい過激で不謹慎な作品」の多くに「地上波では表現しづらいこの世の真理」が描かれていることがよくわかった。沙耶の唄』『ゴア・スクリーミング・ショウ』『夢幻廻廊』のように過激なエログロに満ちたゲームは鋭い所を突いた内容のものが多く、私の考察も概ね好評である。『RIDER TIME 龍騎』もまた、地上波の制約から解放された愛の形を表現した名作であった。
 
そもそも『龍騎』は、コンプライアンスが制定されていないミラーワールドという無法地帯での決闘を描いた作品である。その仕様上、龍騎の制作スタッフも地上波のコンプライアンスを気にしないほうがやりたいことをやりやすいだろう。しかも『RIDER TIME 龍騎』はスポンサーの制約も緩いので、無法地帯を舞台にしたフリーダムな発想が躍動している。
 
地上波とコンプライアンスの制約から解放された狂気の純愛、気持ち良すぎだろ???