ニトロプラスのノベルゲーム『沙耶の唄』には、「開花END」「
『沙耶の唄』
シナリオ:虚淵玄
原画:中央東口
(C)ニトロプラス
2003年12月26日発売
耕司の人柄
『沙耶の唄』の耕司は世界を正常に把握し、 一般大多数の人々が信じる現実を共有する常識人です。 知覚障害を負ってから様子がおかしくなった郁紀を不審に思った 耕司は、郁紀のことを詮索します。 耕司は郁紀に鬱陶しく思われてしまい、郁紀に殺されそうになります。耕司は、 医師の凉子によって救出されます。
「郁紀がやったことは殺人未遂です。俺が訴えれば、あいつは犯罪者としてー」 「目撃者は?物証は?匂坂くんが君を殺す動機は?」粘り強く耕司が続けた言葉を、凉子が強い語調で断ち切る。「なあ戸尾くん。君は警察の仕事についてひどく勘違いしてる。彼らの職分は正義を貫くことでも、 市民の安全を守ることでもない」 「そ、そんな」「不条理な物事について、きちんと条理に沿った体裁を整えるーこれが警察っていう役所の仕 事だ。彼らの思考はいつだって、より理解しやすい方、 より説明しやすい方に傾いていく。 それこそ水が低い方へ低い方へと流れていくように。 事実がどうあろうと彼らには興味ない。彼らが関知するところではないんだよ。小説より奇なる事実、 なんてものは」
常識人である耕司は、警察の力を借りて郁紀を裁こうとします。 警察は公共の権力であり、常識的な理性の象徴でしょう。しかし、郁紀の思考や郁紀を取り巻く状況は、凉子の言葉を借りれば、 とても不条理なものです。不条理を生きる郁紀を、 常識は回収することができません。 耕司はとても常識的な人間なのですが、 その常識は非常識な『沙耶の唄』 の世界では通用しないのです。可哀想に…。
(ここから先には、「耕司END」のネタバレが含まれています。 また、けっこう文字数が多いので、 途中で読むのが辛くなった方は文末の「まとめ:論点整理」 だけ読んで頂ければOKです)
「戯言」の逆転
「事の究明には、けっきょく皆が匙を投げた。奥涯が持ち込んだ試料がどういう起源のものなのか、 誰にも突き止めることはできなかった。 ーまぁ結局、みんな賢明だったわけだ。理性は理性、戯言は戯言、そういう線引きを危うくしないで済む程度ってもんを心得ていた。 でも生憎、当時の私はそこまで賢明じゃなかった」(中略)「あれこれ探って、暴き出して、私は奥涯が何をしていたのか知った。 彼がかかわっていた連中や彼を唆した連中も突き止めた。 鉈と添い寝するようになったのはその頃からだ。この世の理性ってものがどんなにタガの弛んだ、穴だらけの、 頼りない代物なのか理解するようになったのは、ね」
耕司に代表される一般大多数の人々は、「 理性的に考えて理にかなっていること」と「 理性的に考えたら馬鹿らしく思える戯言」 を頭の中で区別して正気を保っています。 そして理性に反する不条理な戯言は、普通は相手にされません。 しかし凉子は奥涯の研究を詮索しているうちに、 常識では到底考えられない怪物がこの世に実在することを知ってし まいます。「理性/戯言」の境界は崩壊し、 凉子は正気を脅かされることになりました。
「耕司END」のラストでは、 常識の代弁者である耕司までもが精神的に追い詰められます。 廃墟で怪物に遭遇し、郁紀たちの壮絶な最期を看取った耕司は、 悪夢や幻覚を見るようになります。
彼は知ってしまったのだ。真実という名の狂気に冒されて、穢されて、二度と何も信じられなくなったのだ。 この自分が、毒に冒されたというのならー真実こそが毒なのだろう。 純粋な酸素が生体にとって有害であるように、剥き出しの真実は、ヒトの精神を破壊する。 酸素は5倍の窒素で包まれてはじめて、大気として許容される。同じことだ。 戯れ言で希釈された片鱗だけの真実を呼吸することで、 人は健やかなる心を維持できるのだ。
この結末では、「戯言」の定義がとうとう逆転しています。 一般大多数の人々は、「常識的に考えたら馬鹿らしく思えること」 を「戯言」だと定義します。 しかし怪物を実際に目の当たりにした耕司にとっては、「 この世に怪物など実在しないという常識」のほうが「戯言」 に思えるのです。「耕司END」のラストは、 一般大多数の人々が信じる常識の優位性を覆すことに成功した結末 だと解釈できます。
悲鳴を上げて逃げ回る以外の選択肢
凉子は深夜のファミレスで、耕司にこんなことも言っています。 この発言は、 凉子と耕司の末路を予告する一種のフラグになっていると思います 。
「銃はいいよ。本当に。相手に向かってぶっ放す良し、それで駄目なら自分の口に突っ込んで引き金をひくっていう選択肢 もある」
凉子は郁紀や沙耶と戦った際に、ショットガンを発砲しました。 凉子は致命傷を負った後も「自分の口に突っ込んで引き金をひく」 という選択肢を選ばず、「相手に向かってぶっ放す」 という選択肢を最期まで選び続けた人物です。
一方、沙耶という怪物を目撃した耕司は、 拳銃を使って自殺しようとします。
“どんなに世界が底抜けに滅茶苦茶になっていこうと―”耕司の脳裏を過ぎるのは、生前の、本物の丹保凉子が自ら口にした言葉だった。 “悲鳴を上げて逃げ回る以外の選択肢が、自分にはある―”それは紛れもなく、彼女が胸に秘めていた慰めの形なのだろう。夜毎に襲い来る悪夢に立ち向かうための護符だったのだろう。 先人の教訓を胸に刻んだ耕司には、もちろん、準備に抜かりはない。 ただ一発の弾丸は、いつでも洗面所の鏡の裏で、耕司に救済を保証してくれている。
耕司は凉子が遺した言葉を心に刻み、 世界の不条理に対処するために銃と弾丸を使おうと思っています。 不条理な世界で悲鳴を上げて逃げ回る選択肢を拒んでいるという点 では、耕司と凉子は共通しています。しかし凉子が最期まで「 相手に向かって発砲する」という選択肢を選んだ一方、耕司は「 自分に向かって発砲する」という選択肢を選ぼうとします。 凉子は戦い続けることによって不条理に対応しましたが、 耕司は自殺することによって不条理に対応しようとします。 ここが大きな違いです。
まとめ:論点整理
「耕司END」には、 一般大多数の人々が信用する理性や常識を突き崩し、「戯言」 に貶める作用があります。 多くの人々は理性や常識に従って判断しますが、 その理性や常識とやらは言うほど信用できるものなのか? という話ですね。「耕司END」は、 虚淵さんのダークな筆致で綴られた一種の理性批判だと思います。
さらに「耕司END」は、 世界には理性や常識を破る出来事が存在するとわかったとき、 人は不条理にどう対処するのか? というところまで踏み込んでいます。 不条理から悲鳴を上げて逃げ回るという選択肢の他に、「戦う」 という選択肢と「自殺する」 という選択肢があるということが示されています。
一見すると地味な「耕司END」ですが、 読み物としての完成度は非常に高いと思います。
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私が読んだ限り、「耕司END」のシナリオはカミュの『異邦人』 とけっこうテーマが似ていると思います。
「耕司END」とはまた違った形で不条理を描いた『 青い空のカミュ』も、面白いですよw