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村上龍『限りなく透明に近いブルー』考察という営みを批判する考察

今回は、村上龍のデビュー作限りなく透明に近いブルーを考察する。本稿は単なる考察ではなく、考察という営みを批判する考察」である。『限りなく透明に近いブルー』は主人公・リュウの「観察」に基づく小説であり、露骨に考えさせられるようなメッセージ性が希薄である。この小説は理屈や思弁が乏しいし、読者を「考えさせなくする」要素に満ちている。だから私は、この小説のメッセージを素朴に考察するなんて野暮なことはしないのである。
 

講談社文庫
2009年4月15日発行
 

「考えない」「考えさせない」小説

リュウは非常に受動的な主人公である。リュウは、作中に登場するガラの悪い若者たちの退廃的な日常を受動的に観察し続ける。リュウは難しいことを「考察」せずに光景を「観察」するのに特化した人物である。そのため彼は、リリーというヒロイン(?)に「赤ちゃんみたいに」物を見ようとしていると言われている。
 

「(中略)あなた何かを見よう見ようってしてるのよまるで記録しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さな子供みたいに。実際子供なんだわ、子供の時は何でも見ようってするでしょ?赤ちゃんは知らない人の目をじっと見て泣き出したり笑ったりするけど、今他人の目なんかじっと見たりしてごらんなさいよ、あっという間に気が狂うわ。やって見なよ、通り歩いてる人の目じっと見てごらんなさいよ、すぐ気が変になるわよ、リュウ、ねえ、赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ
 リリーは髪を濡らしている。冷たいミルクと一緒にメスカリンを一カプセルずつ飲む。
俺は別にそんなに考えたことないよ、結構楽しんでるんだけどな、外を見るのは楽しいよ」(pp.72-73)
 
リリーはリュウを「学者みたいに」何かを見ようとしているとも評しているが、リュウ本人は特に難しいことを考えてはいない。なので学者みたいに」という表現にはけっこう語弊があると思う。学者は自然現象や芸術作品などをしっかり「観察」した後で、観察した対象を研究し「考察」する(全ての学者がそうじゃないと思うけどね)。しかしリュウは知覚された生の現実を「観察」しているだけであり、生の現実から「考察」を取り立て抽出したりはしない。*1彼は「考えずに感じる」タイプの人間なのである。
 

また、限りなく透明に近いブルー』は、セックスとドラッグに満ちた小説である。登場人物がセックスをする場面やドラッグを注入する場面がやたら多い。セックスとドラッグには、「人間の思考力を奪う」という共通点がある。どんなに思慮深い人でもセックスをしている間は猿みたいなものだし、シャブ浸けになったらマトモにものを考えられなくなる。この小説では「考えさせなくする」セックスとドラッグが執拗に描かれているので、この小説の内容を素直に「考察」するのは余計に気が進まないんだよなあと思う。
 
限りなく透明に近いブルー』の主人公は「考察せずに観察する男」だし、作中のセックスやドラッグは「考えさせなくする要素」である。この小説は米軍基地がある福生市が舞台になっているので、軍事に詳しい人なら作中のアメリカについてそれらしい「考察」が書けるかもしれない。それにしてもこの小説は馬鹿正直に「考察」されるのを拒むような作品なので、もしも「考察」したい人は場の空気を読んでから発言した方が良いと思う。
 

美大生の視点

小説でありがちなのは、一連のストーリー展開を通じて作者の思想や教訓を読者に伝えようとするタイプの作品である。また、自分の科学的ウンチクを作中で披露したがるSF作家や、自分の説教を作中に反映したがる人生経験豊富な作家とかも存在する。しかし限りなく透明に近いブルーはストーリー性が乏しいフラットな文体で書かれているし、読んでいて村上龍の学識や訓戒を明確に受信できる箇所は特に見当たらなかった。
 
ストーリー性やメッセージ性が無い小説なんてつまらなそうだな」という意見が出てくるかもしれないが、限りなく透明に近いブルーは令和の私が読んでもけっこう面白い。しかもこの小説は累計350万部以上売れている。なぜならこの小説は、描写が非常に優れているからだ。ストーリー性やメッセージ性が貧弱でも、作画や演出が超絶に優秀だから面白いアニメが存在する。この『限りなく透明に近いブルー』の場合は文字による描写、言わば文字による作画」が秀逸だから面白い。例えば、次の描写を見て欲しい。
 

 ゴキブリはケチャップがドロリと溜まった皿に頭を突っ込んで背中が油で濡れている。
 ゴキブリを潰すといろいろな色の液が出るが、今のあいつの腹の中は赤いかもしれない。
 昔、絵具のパレットを這っているやつを殺したら鮮やかな紫色の体液が出た。その時パレットには紫という絵具は出してなかったので小さな腹の中で赤と青が混じったのだろうと僕は思った。(pp.10-11)
 
この場面は、ゴキブリがケチャップに頭を突っ込んでいるのを観察したリュウ、ゴキブリに関する昔の記憶を思い出す場面である。この場面は、描写力表現力が無い人間が書いたら普通に最悪な絵面である。しかし村上龍は優れた観察に基づく色彩豊かな描写を行っており、作中でゴキブリが登場しても、私は非凡な文章表現にある種の感動を覚えた。才能に恵まれた芸術家は、醜悪な光景すらも芸術に昇華させるのだ。
 

私は他人を学歴で判断したくないし、他人に学歴で判断されたくない。しかし限りなく透明に近いブルー』の形成には、村上龍美大(ムサビ)の出身であることが深く関与しているように思われる。多くの受験生が国語や数学などの問題を「考える」訓練をしている時に、美大の受験生は観察や描写の訓練に時間を費やす。美大出身の村上龍も当然「考察」よりも「観察」重視の修行をしたはずで、その経験が斬新なデビュー作を誕生させるきっかけになったのだろうと私は推測している。
 

「学者みたいな考察」から「赤ちゃんみたいな観察」へ

「純文学は、読者に考えさせるような奥深いテーマ性があるべきだ。『限りなく透明に近いブルー』にはメッセージ性が足りないから、こんなのはエンタメ小説の一種だ」と、批判したくなる人がいるかもしれない。そして限りなく透明に近いブルー』は「考えさせられる」小説ではないので、研究に値する文学作品としてどうかという疑問の声が上がってもおかしくない。しかし「考察」という営みは、手放しに誉められるものではないのだ。
 

「考察する」ことは、確かに人の思考力を鍛える。しかし人は考えすぎると、時に生の現実を「観察」できなくなる。考え事をしているうちに、身近な輝きを見落とした。自分の考えに固執しすぎて、他人との話し合いが成立しなかった。記録を研究する「学者みたいに」対象を「考察」することにのめりこむと、人は生の現実から遠ざかる。そこで重要なのは、生まれたての「赤ちゃんみたいに」生の現実を「観察」するということである。「考察」に没頭する学者たちが看過しがちな「観察」に筆力を振り切った結果生まれた産物が、この『限りなく透明に近いブルー』という収穫であろう。
 
〈関連記事〉
限りなく透明に近いブルーは今読んでも清新なセンスを感じる小説ですが、『コインロッカー・ベイビーズは今読んだらセンスがかなり古いと思いました。この『コインロッカー・ベイビーズ』の記事は2年前のものですが、今改めて見てもそこそこ良く書けている……ような気がする(他人から見たらどうかは知らんけど)。

*1:物語の登場人物が体感している「現実」も、物語の読者にとっては「虚構」なんじゃないかという厄介な問題があるけど、この問題に触れると話が拡散するので今回は大目に見てクレメンス