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『ポケットモンスター みんなの物語』批評~2つのアンサー~

ポケットモンスター みんなの物語』(以下『みんなの物語』)は、ポケモン映画第21作品です。『みんなの物語』では、フウラシティという街で6人の個性的な主役が活躍します。ラルゴ、リサ、トリト、カガチ、ヒスイ、そして相変わらずの主人公サトシ。この映画は、複数の主役それぞれに見せ場がある群像劇です。

 

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ポケットモンスター みんなの物語』
監督:矢嶋哲生
脚本:梅原英司、高羽彩
(C)2018 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★☆(この映画は前作、前々作へのアンサーフィルムかもしれない)
 

『キミにきめた!』へのアンサー:〈個〉から〈みんな〉へ

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さて、『みんなの物語』を観て「この映画は『キミにきめた!』と何となくテーマが繋がっている気がする…」と思ったのは私だけではないと思います。『キミにきめた!』ポケモン映画第20作品で、『みんなの物語』の前作に当たります。とは言え『みんなの物語』と『キミにきめた!』は制作スタッフが大きく異なりますし、『みんなの物語』は『キミにきめた!』の後日談ではありません。しかし『みんなの物語』を観ていると、この映画は何となく前作『キミにきめた!』へのアンサーフィルムであるように思われるのです。
 
思うに、『キミにきめた!』は「特定の〈個〉」に焦点を当てた映画である一方、『みんなの物語』は「幅広い〈みんな〉」を照らし出す映画でしょう。『キミにきめた!』ではサトシがピカチュウという〈個体〉を相棒に選び、ホウオウという〈個体〉に会いに行き、サトシという〈個人〉が虹の勇者に選ばれる物語でした。そもそも『キミにきめた!』という題名自体が、映画の方向性をよく表していると思います。「キミにきめた!」という言葉は、「キミ」という特定の〈個〉を選別するための宣言に他なりません。
 

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一方『みんなの物語』では特定の〈個〉を選別する力学があまり発生しておらず、幅広い人間やポケモンみんな〉を照らし出す内容になっています。『キミにきめた!』では、ホウオウに選ばれた例外的な主人公として、サトシの立場が特別視されていました。かたや『みんなの物語』ではサトシ以外の5人の主役が大活躍しており、サトシの立場が相対化されています。『キミにきめた!』では厳しい〈個〉の選別が行われ、『みんなの物語』ではできるだけ〈みんな〉が活躍する。『キミにきめた!』から『みんなの物語』の間では、〈個〉から〈みんな〉への移行が発生していると私は思うのです。
 

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また、『キミにきめた!』にはホウオウが登場し、『みんなの物語』にはルギアが登場することも、この二作を姉妹品のように見せていると思います。ホウオウはポケモン金のパッケージを飾ったポケモンで、ルギアはポケモン銀のパッケージを飾ったポケモンです。ホウオウとルギアはゲームでは金と銀、姉妹品の関係にあります。そして、『キミにきめた!』のホウオウはサトシという〈個人〉を虹の勇者として選別しましたが、『みんなの物語』のルギアは街中の人間やポケモン〈みんな〉に風を送りました。*1そのため映画におけるホウオウとルギアの間でも、〈個〉を重視するか〈みんな〉を重視するかの違いが発生していると感じました。
 

『機巧のマギアナ』へのアンサー:ウソつきの社会貢献

私が観た限り、『みんなの物語』では「ウソつき」に関する描写が妙に多いなと思いました。この映画ではウソをつくことの悪さが一応描かれつつ、ウソつきが社会の役に立つ様子も描かれています。
 

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『みんなの物語』には、主役の一人としてカガチというホラ吹き男が登場します。カガチは、とても興味深い人物です。カガチは作中でしょっちゅうウソをつくのですが、彼はウソをついて人々を悲しませたり絶望させたりしようとは思っていないように見えます。カガチにはリリィという姪がいて、彼はリリィに自分の良いところを見せようとしてウソをついているようにお見受けしました。カガチは詐欺師ではなく、お調子者や見栄っ張りが暴走した結果、ホラを吹いていると思いますね。
 
カガチの相棒になるポケモンは、ウソッキーです。カガチとウソッキーは両方ともウソつきであるため、作中でコンビを組むことになります。『みんなの物語』ではウソッキーの活躍が印象に残りやすく、映画放映当時はウソッキーをもてはやす意見が多く出た記憶があります。
 

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カガチ「ウソをやめるのは撤回だ。いくらでもウソついてやる!それで大切なものを守れんなら!
ウソッキー「ウッソ!ウ…」
カガチ「オレたちは最強だ!」
 

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『みんなの物語』ではカガチとウソッキーのウソつきコンビが活躍するのですが、それに加えてフウラシティの市長すらもウソをつきます。フウラシティの市長は先代から、山奥に住む幻のポケモンゼラオラを保護するために、「ゼラオラは死んだ」というウソをついてきたのです。人間の欲望からゼラオラを守るための手段として、市長はウソをつかざるを得ませんでした。市長は最終的にウソをつくのをやめますが、カガチとはまた違った「善意あるウソつき」でした。
 
市長が「ウソをやめた公人」である一方、カガチが「ウソをやめなかった私人」として対比されているのかもしれません。市長は「ウソをつくのは良くないからやめるべきだ」というタテマエを代弁していて、カガチとウソッキーは「何かを守るためならウソをついてもええやん」という公にしにくい倫理観を体現しているように思えるんだけど、違うのかな。
 
『みんなの物語』ではウソつきに関する言及が多く、ウソつきの活躍も描かれています。この妙な「ウソつき推し」は、一体何なのか。自信がありませんが、『みんなの物語』のウソつき推しは、ポケモン映画第19作『ボルケニオンと機巧のマギアナへのアンサーだと解釈できるかもしれません。『機巧のマギアナに登場するボルケニオンは、「ポケモンはウソをつかねえが、人間はウソをつくから信用ならねえ」という思想を持っていました。しかし『みんなの物語』を観れば、ポケモンの中にもウソッキーのようなウソつきが存在するし、ウソつきな人間の中にも善人が存在するから一概に悪いとは言えない」と応答できます。
 

結語

『みんなの物語』は主役が多いし論点も多い映画です。今回私がこの記事で主張したかったのは、「『みんなの物語』には前作と前々作へのアンサーが含まれているように思える」ということです。前作『キミにきめた!』では「〈個〉の選別」が描かれた一方、『みんなの物語』では「〈みんな〉の活躍」が描かれている。そして前々作『ボルケニオンと機巧のマギアナでは「ポケモンは正直者で人間はウソつきな悪人だ」という思想が軸になっていた一方、『みんなの物語』では「ウソつきなポケモンとホラ吹き男の社会貢献」が描かれている。『みんなの物語』の論点は無数にありますが、私が特に言いたいことは以上です。

*1:キミにきめた!』のホウオウもみんなに活力を与えましたが、ホウオウの主な存在意義は〈個〉の選別だと思います