かるあ学習帳

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『終末のワルキューレ』と令和の世相~終末の未来とサンプリングされる過去~

『終末のワルキューレとかいう漫画を、最新の15巻まで読み終わった。この漫画は脳筋気味なバトルとかなり単純なストーリー展開が特徴的な作品で、知的な人に小馬鹿にされる恐れがある内容だと思った。しかし私は、この漫画はある意味で令和の世相を読み解くための重要作品」なのではないかと仮説を立てている。なぜならこの漫画は、終末の未来」「過去の遺物のサンプリング」によって成立しているからだ。私と同じような仮説を立てた先達っているのかな。もしいたら是非教えて頂きたいものだ☆
 

『終末のワルキューレ(1~15まで刊行中)』
作画:アジチカ
原作:梅村真也
2017年11月25日~
 

「終末の未来」と「過去の遺物のサンプリング」

『終末のワルキューレ』の冒頭では、神々による「人類存亡会議」が開かれる。人類は戦争をしたり地球環境を破壊したりしてきた害悪なので、神々は人類を滅亡させようと思った。しかし人類に肩入れする半神のブリュンヒルデは、ヴァルハラ闘技場にて神と人類の「最終闘争」を提案する。こうして神の代表13名と人類の代表13人でタイマン勝負が行われ、人類が神に7勝したら終末が引き延ばしになることになった。
 

また、この漫画は歴史や伝説などの「過去の遺物」に激しく依存している。この漫画の冒頭では現代人の蛮行が描かれているし、作中に登場する神々がipadみたいな装置を操作している場面も一応ある。しかし物語の大半はヘラクレス・シヴァ・呂布佐々木小次郎など、過去の神々や英雄の対決で占められている。物語の主導権を握っているのは過去の遺物に記録された存在者ばかりで、現代人の見せ場が全然無い漫画だった。
 

「終末時計」の針が止まらない

最近、斎藤幸平さんが書いた『人新世の「資本論」』とかいう新書がベストセラーになった。「人新世」というのは何かと言うと、「人類の活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした年代」という意味である。人類は経済を成長させながら地球環境を破壊し、貧富の差を拡大してきた。人新世は環境と人類の危機の時代であり、『終末のワルキューレでは人新世に突入した有害な人類が裁きにかけられていると言える
 

環境破壊と貧富の差に限らず、色んな意味で人類の歴史は終末に向けて加速しているように思える。コロナウイルスで毎日大勢の人々が搬送されているし、ロシアとウクライナの間で戦争が勃発している。外山恒一さんによると、安倍元総理の暗殺をきっかけに終末時計」の針が一気に進んだという説がある。今現在の現実では神と人類の「最終闘争」は開幕してないと思うけど(笑)、人類の終末は、明らかに漫画の中のフィクションに留まらない現実の問題である。
 

末法思想とレトロトピア

『終末のワルキューレには、過去の神話や伝承に記録された神々や英雄が続々登場する。初めのうちはアダムやゼウスのようなキャラが、過去の資料の伝統的なイメージをまあまあ損ねない外見で描かれていた。しかし、釈迦が登場する第8巻以降のキャラデザが実にヤバい。聖人であるはずの釈迦がヤンキーのような外見で描かれているし、釈迦と敵対する七福神もゴロツキの集まりみたいだ。15巻の表紙に描かれている始皇帝も従来のイメージからかなりかけ離れていて、「こんな外見でいいの……?」と思った。
 
私は『終末のワルキューレ』を読んでいて、この内容だと宗教団体から怒られが発生するのではないかしらと心配になった。そういう話もあるものの、この漫画は過去の神々や英雄をサンプリングしていると思う。サンプリングというのは、ウィキペディア的に言うと過去の音楽や音源を流用し再構築し、新たな楽曲を作曲すること」を意味する。『終末のワルキューレを肯定的に解釈すると、過去の神話や伝承を流用し再構築し、新たな(?)バトルやキャラクターを創造している」と言えると思う。そのためこの漫画がやってることは、実質過去の遺物のサンプリング」だと私は思うのである。
 

『ニック・ランドと新反動主義とかいう本によると、最近のアメリカのミレニアル世代は未来に希望を持てないらしい。今のアメリカは不景気や経済格差などの不安に満ちており、若者たちは「未来」は「喪失」だと思っているっぽい。未来に期待できないと、古き良き過去にユートピアを求める発想が生まれる。そこでネット空間では、80~90年代の商業BGMや山下達郎のようなシティポップなどの遺物をサンプリングするのが流行ってくる。だから今になってバブリーな80年代の日本が世界中で再評価されるようにもなるという説がある。
 
こう考えるとアメリカの若者文化や令和の山下達郎ブームにも、終末の未来」「過去の遺物のサンプリング」という、終末のワルキューレにかなり通底する原理が働いていると言えないだろうか?終末のワルキューレ』でも人類の未来が風前の灯火だから、過去の英雄譚が懐古されてるんだろうし。もっとも現代の若者を「未来に希望を抱けない世代」だと安易に一括りにしないほうが良いと思うし、音楽やアングラ文化に詳しくない私はこれ以上口を慎んだほうが良いかも知らへんけど。
 

「新しさを追求しない」時代

紅茶泡海苔さんによると、2020年代の現代人は皆ノスタルジーに囚われているから新しさを追求していない」らしい。そこで過去と共に失われた可能性の未来に祈りを捧げる」ってのが、令和のトレンドになってるっぽい。現実の現在は最悪の終末に向かいつつあるので、現代人の想像力は「古き良き過去」「あったかもしれない未来」を探索しているのだろう。
 
『終末のワルキューレは過去の遺物に大きく依存した作品であり、闘技場での武闘という設定とかにも正直「新しさ」が感じられない。しかし私は、「『終末のワルキューレは目新しい要素がないからつまらない」と批判したいとは思わない。なぜなら令和の日本はお先真っ暗であり、斬新さを追求できるほどの元気を無くしてきているだろうからだ。そうである以上、令和の人間に「新しさ」を要求するのは酷な話であろう。
 

また、『終末のワルキューレがかなりの人間讃歌だという点も注目に値する。ブリュンヒルデはどうにかして人類を神々に勝利させようとしているし、ヘラクレスも神でありながら人類を愛している。今のところこの漫画は過去の遺物をサンプリングしながら、人類がこの先生きのこる未来を探求する作品だという印象を受けるもっともこの漫画はかなり単調だから、私は持ち上げ過ぎかも知らへんけど。それにしてもこの漫画には令和の世相を占う要素が満ち満ちているので、インテリ達に下に見られたら悲しいなあと思う。
 

ついでに「過去と共に失われた未来に祈りを捧げる」という観点からすると、『東京卍リベンジャーズ』とかもいい線行ってると思う。なぜならこの漫画は、主人公・タケミっちが過去にタイムスリップし、絶望の現在とは別の可能性を模索する話だからである。過去と共に失われた未来に祈りを捧げる」という言葉は恐らくもっと清純派な青春物語を意識した文言だと思うけど、『終末のワルキューレ』『東京卍リベンジャーズ』みたいに男臭いバトル漫画にも拡大解釈していいんじゃないかなあー、と私は思うわけですよ。