かるあ学習帳

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『月曜日のたわわ』第一話の演出は、日本語の文法に似ている。

結論から先に言おう。アニメ『月曜日のたわわ』第一話の演出は、日本語の文法に似ていると私は思った。カメラから語り手の存在感を除外しながら、自分を卑下して相手を崇拝する」という点で、『月曜日のたわわ』第一話と日本語文法は似ているのだ。
 
ちなみに私は、『月曜日のたわわ』をアニメ版第一話しか観ていない。この記事はとりあえず、あくまでも私がアニメ版第一話を観終わった直後の備忘録である。
 

前提アーギュメント:日本語文法の特徴

時吉秀弥の『英文法の鬼100則』では、英語文法と日本語文法の違いが説明されている。時吉によれば、英語は「外から、もう1人の自分が自分を眺める言語」である。一方、日本語は「自分がカメラになって外の風景を映す言語」だという。
 

 日本語では、話し手がカメラになって外の世界を言葉によって映し出します。カメラは風景の中には写り込みませんから、話し手自身の存在が消え、言語化されないことがよくあります。
 英語のIと違い、日本語では「私は」という主語が言語化されないことがよくあるのは、この影響かもしれません。
 日本語の「ここはどこ?」という表現にも「ここ」と「どこ」という「カメラに映る風景(場所)」のみが言語化されています。*1
 
確かに日本語では「語り手が文章から消える」ことがよくあるので、「私は」という主語が言語化されない場合が多い。私がとある部屋に入ったら、その部屋には私以外の誰もいなかった。そういう状況を、日本語では「その部屋には誰もいませんでした。」と報告することがよくあったりもする。
 
しかしその状況を英語で説明する場合、"There was no person in the roon except me." "In the room, nobody was there except me."(訳:その部屋には私以外の誰もいませんでした。)とか言うのがネイティブにとって自然な文章だとされるらしい。*2私がその部屋に入ったんだから、その部屋に他人がいなくても私がいるのは当然だろ?だからその部屋には、「私以外の」誰もいなかったんだよ。これが英語文法的な考え方であろう。
 

また、谷崎潤一郎文章読本で、日本語では「自分を卑下し、相手を敬う言い方」が充実していることを指摘した。確かに日本語には尊敬語謙譲語が存在するし、私のようなふつつか者は……」「つまらないものですがどうぞご笑覧ください……」みたいに、やたらへりくだった言い回しが病的なほど充実してるよなーと思う
 
要点をまとめよう。日本語文法には「語り手である"私"を語りから除外し、"私"をへりくだらせながら相手を尊敬する」という特徴がある。では、この予備知識を頭に叩き込んで、アニメ『月曜日のたわわ』第一話をようつべで鑑賞してみよう。
 

日本語文法のような『月曜日のたわわ』の世界

『月曜日のたわわ』第一話の主人公(語り手)は「お兄さん」という名前で、実名は不明である。しかも彼の顔には目が描かれておらず、彼は匿名性の高い名無しのモブキャラみたいな男として描かれている。
 

「お兄さん」の手前で改札機の扉が閉まっている場面は、彼の未来(手前)に憂鬱が立ち塞がっていることを暗示しているのであろう

「お兄さん」の左右で通路とお手洗いが分かれている場面は、「他人に迷惑をかける」か「自分が楽になる」かで、彼の心が岐路に立たされていることを暗示しているのであろう
 
「お兄さん」はグッタリしたうだつの上がらないサラリーマンであり、上司に怒られた。しかし疲れ切った彼は、駅の階段でアイちゃんというかわいい女子高生とぶつかる。「お兄さん」とアイちゃんは縁を結び、彼は彼女のために痴漢防止のボディーガードをすることになった。
 
「お兄さん」は、上司やアイちゃんに仕える「従僕」のように描かれている。「お兄さん」はアイちゃんよりも年上の社会人なのに、ボディーガードを仰せつかる」「我ながら分不相応だと思うものの」と、彼自身をアイちゃんよりも卑下しまくっている。そして彼は、アイちゃんの美貌を褒めまくるのである。
 

お兄さん「大きな目に長いまつ毛。」「コロコロ変わる豊かな表情。」「しっかりとした受け答え、言葉遣い。」「学生時代、こんな子に憧れていたなあ。」
 

このアニメでは、人混みや物陰越しにアイちゃんを覗き見るような構図」が多用されている。手前にたくさん人がいて、その奥に「お兄さん」がいて、しかもさらに奥にいるアイちゃんにピントが合っているような構図。あるいは、通勤者や「お兄さん」の間をかいくぐって、アイちゃんを下から覗き見るような構図など。
 
端的に言ってこのアニメの演出、アイちゃんのことが好きなのにアイちゃんを堂々と直視できない男の心の弱さ」が見事に表現されていて、なかなかに芸術点が高いなと思ったよ、俺はwww
 

日本語の文法を相対化せよ

私はこの『月曜日のたわわ』とかいうアニメの第一話を視聴し終わって、「いかにも日本語でものを考える日本人が作りそうなアニメだなあ」と思った。『月曜日のたわわ』第一話の世界は、まるで日本語文法の世界みたいだ。
 
日本語文法では主語である"私"がよく除去され、他人を尊敬し謙譲する言葉遣いが用いられる。そして『月曜日のたわわ』の「お兄さん」は"私"を隠蔽する匿名性の高い人物であり、尊敬するアイちゃんに隷属した。つまり日本語文法と『月曜日のたわわ』第一話は両方とも、自己否定・自己卑下・他者崇拝のメンタリティを備えているという点で共通していると言えるだろう。
 
『月曜日のたわわ』はスタイルの良い美少女をモジモジしながら覗き見るような作品であり、一部の人々に不快感を与えたことで知られている。しかしこのような形で「自分を消して他人を持ち上げる」タイプの作品が日本で生産されることは、日本語の文法構造を分析すれば想定内だと私は思っている。
 
日本語を喋る日本人は、日本語を使っているうちに「自分を消して他人を持ち上げる」ように脳がパターン化されていてもおかしくない。そのようにパターン化された日本人の脳から生み出された作品が、この『月曜日のたわわ』なのではないかと私は思う。ちなみに私は神経科学者ではないし、「『月曜日のたわわ』は日本語文法によってパターン化された脳から生み出された作品だというのは、あくまでも私の素人仮説である。
 
しかし『月曜日のたわわ』の演出を卑屈だと思った人は、そもそも日本語の文法に卑屈さがあるということについてよく考えてみてはいかがだろうかと私は提案したい。日本語の文法は『月曜日のたわわ』のような物語を育みやすい「種子」であり、その「種子」から『月曜日のたわわ』のような「枝葉」が生産されるとしたら、どうだろうか。
 
日本に住み、日本語でものを考え、日本語を喋る日本人には、自己否定・自己卑下のメンタリティが憂鬱な形で宿る恐れがあると私は思う。私は最近、英文法の勉強に励んでいる。なぜなら英文法を勉強すれば、卑屈になりがちな思考パターンを相対化できると思うからだ。自分を消して他人を持ち上げる」思考パターンの別解を得るためには、英語のような外国語文法の習得が有効だと私は考えている。

*1:時吉秀弥『英文法の鬼100則』、明日香出版社、二〇一九、一七頁。

*2:参考文献:倉林秀男・河田英介『ヘミングウェイで学ぶ英文法』、アスク出版、二〇一九、一二三頁。