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カミュ『異邦人』の考察~最後の一文編~

今回は、ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』の結末を解説します。なお、ベルナール・パンゴーの仮説については、N大学のT.H先生にメールで教えていただきました。T先生、お忙しいところ教えて頂きありがとうございました。

 

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『異邦人』
アルベール・カミュ(窪田啓作訳)
1954年初版発行
 

不条理な結末

 
『異邦人』の主人公・ムルソーは、アラビア人を殺害します。裁判にかけられたムルソーは、死刑を宣告されます。死刑を宣告されたムルソーは、物語のラストでこんなすごいことを言って終わります。
 

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すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。(pp.156-157)
 
この発言は、常識的に考えるとワケワカメまみれですよね。死刑になった自分の周りに憎悪の叫びをぶつける人々が集まったら普通の人は孤独で心細いと感じると思います。しかしムルソーは逆に、処刑の日に自分を憎む人々が訪れることによって「自分は孤独ではない」と感じるみたいなんですね(苦笑)。なぜ、見物人のヘイトが集まることによってムルソーの孤独感は解消されるのか?この問題の解答例をご紹介しましょう。
 

ベルナール・パンゴーの解釈

 
批評家・作家のベルナール・パンゴーは、ムルソーは自分が死刑になることによって、父親に接近することを期待していた」という仮説を提唱しました。この仮説の根拠は、以下の文章です。
 

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 そんなときに、私はママンから聞いた父のはなしを思い出した。父は、私の記憶にはない。父について私が正確に知っていたことといっては、恐らく、ママンがそのとき話してくれことだけだろう。父はある人殺しの死刑執行を見に行ったのだ。(中略)死刑執行より重大なものはない、ある意味では、それは人間にとって真に興味ある唯一のことなのだ、―そんなことがどうしてこれまでわからなかったのだろう!(p.139)
 
ムルソーには、自分の父親に関する記憶がありません。ムルソーは母親から、自分の父親は死刑執行に興味を持っていたということを聞かされています。ということは、ムルソーに死刑が執行されたら、自分の父親がムルソーのもとにやってくる可能性があります。ムルソーは、自分の父親に会いたいと思っていた。死刑が執行される日に自分の父親がやってきたら、ムルソーは寂しくない。だからムルソーは、死刑執行の日に大勢の人々がやって来て大騒ぎになることを望んだのだ。これがパンゴーの仮説です。
 
なるほど、パンゴーの仮説を採用すれば、ムルソーが憎悪の叫びをあげる見物人を欲した理由が納得できますね。パンゴーの仮説のいいところは、論理常識を破っているように見えるムルソーの発言を合理的に得できるように説明しているところです。パンゴーの仮説のよくないところは、『異邦人』でちょろっと言及されているだけの父親についての記述を当てにしているところだと思います。ムルソーは『異邦人』の作中で父親のことについてほとんど言及してないし、ムルソーが父親に接近したがってることなんて普通わかんねえよ!!!」って怒る人が出てきそうな解釈ではありますね。
 

管理人=甘井カルアの解釈

 
今度は、『異邦人』のラストに対する私の見解を述べさせていただきます。私は、そもそも「大勢の人々にヘイトを向けられた人間が孤独でなくなるのはおかしい」という常識を捨て去るべきだと考えています。常識的に考えたら、ラストのムルソーの発言はとても不条理に思えます。しかし私たちは常識を捨てて、ムルソーの発言をありのままに受けとめるべきではないかと思います。
 
ムルソーは、常識が通用しない思考や行動パターンの持ち主です。例えば、ムルソーは自分の母親を愛していました。しかしムルソーは、「母親が死んだら母親の死顔を見て泣く。葬式の後には遊びに出掛ける気にはなれない」という社会の常識に適応しませんでした。『異邦人』に登場する検事はムルソーの心情を理解せず、非常識な行動をするムルソーを「精神的に母を殺害した男」だと誤解しました。ムルソーは自分の心情を、常識的な形で表現しません。
 
なので、「私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった」というムルソーの発言も、常識を捨てて文字通りに受けとめるべきだと私は考えています。自分は孤独でないと感じるために大勢の見物人の憎悪を望むというのは常識的に考えると変な話ですが、ムルソーという特異な男がそう思ったからそうなのではないでしょうか(笑)。
 

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『異邦人』では、常識に囚われない人間のあり方が描かれていると思います。私たちは物事を理性的に・常識的に捉えようとしますが、この世界の出来事は時として人間の常識を超えています。人間が信用している理性や常識は、『沙耶の唄の凉子が言うように「タガの弛んだ、穴だらけの、頼りない代物」なのかもしれません。
 

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〈関連記事〉
↑私は『異邦人』を考察するときに、よく『沙耶の唄について言及します。不条理と常識のせめぎ合いを描いた作品として、『異邦人』と『沙耶の唄』が同じ問題圏を共有していると感じます。