かるあ学習帳

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カミュ「シーシュポスの神話」のあらすじと解釈

フランスのノーベル賞作家カミュは、「シーシュポスの神話」という短い寓話を書きました。「シーシュポスの神話」は、人生が上手く行っていない人に読んで貰いたいお話です。上手く行かなくても、人は(たぶん)幸せになれます。
 

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「シーシュポスの神話」(『シーシュポスの神話』所収)
1969年7月15日発行
 

あらすじ

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 神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。
 
シーシュポスは、ギリシア神話に登場する英雄です。シーシュポスは神々の反感を買い、地獄で刑罰を受けることになります。シーシュポスが受けた刑罰は、岩を転がして山のてっぺんまで運ぶという労役です。しかも山のてっぺんまで転がされた岩は、また平原へと転がり落ちてしまうという意地の悪いオマケまで付いています。シーシュポスは、岩を山頂へ転がしてはまたふもとまで降りてゆく、という無益な労役を繰り返しています。
 
 この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。(中略)神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだじゅう考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。
 
カミュは、シーシュポスを意識に目覚めた男だと評しています。シーシュポスは、自分の地獄での境遇が悲惨だと知悉しています。「自分の境遇が悲惨であることを良く知っているなら、シーシュポスはきっと不幸な人間だね」と思う人は少なくないでしょう。しかしシーシュポスは自分の悲劇的な生を知り、自らの運命を侮蔑することにより、運命に勝利します。
 

f:id:amaikahlua:20211002150006p:plainカミュ(1913~1960)

 不条理を発見したものは、だれでも、なにか「幸福への手引」といったものを書きたい気持になるものだ。「え、なんだって、そんなに狭い道を通ってだと……?」だが、世界はひとつしかない。幸福と不条理とは同じひとつの大地から生れたふたりの息子である。このふたりは引きはなすことができぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生れると言っては誤りであろう。幸福から不条理の感情が生れるということも、たしかにときにはある。「私は、すべてよし、と判断する」オイディプスは言うが、これは〔不条理な精神にとっては〕まさに畏敬すべき言葉だ。
 
カミュは、幸福と不条理を兄弟のようなものだと考えています。悲劇の代表的な主人公であるオイディプス王は、文字通り悲劇的な運命を辿りましたが、悲しみを知ると共に幸福も知り、「すべてよし」という肯定を宣言したらしい。人は悲惨な人生でも幸福を感じ、悲惨な人生にそぐわない不条理な勝利宣言をすることができるのです。シーシュポスも地獄で悲惨な労役を課せられましたが、勝利し全てを肯定しました。
 
 ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。(中略)頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。(完)
 

解釈

皆さん、いかがだったでしょうか。皆さんの中には「なるほど、良い話だ」と思った人もおられるでしょうし、何だか奇妙でよくわからない話だなあ」というご意見もあることでしょう。まあ、私自身もこのお話を十全に理解しているとは言い難いんですが(笑)、現時点で「このお話はこういうことかな?」という解釈は一応あります。良かったら参考にして頂ければ幸いです。
 
・上手く行かなくても幸せになれる
2年前に、『青い空のカミュというゲームが発売されました。『青い空のカミュ』は、題名の通りカミュの文学から着想を得た作品です。このゲームでは「シーシュポスの神話」の注釈として、「〈幸運〉と〈幸せ〉は違うものだ」という話がされています。
 

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DJゴドー
「ここで一つ、質問だ。幸運と幸せ、その違いってなんだろうね?
「幸運ってのは良くかわる、上手くいくようになること。宝くじが当たったりなんて、わかりやすくそうだね。今だったらレアガチャかな?」
「じゃあ、幸せって?これは難しいよ。成功したって幸せとは限らない。勝利は栄光を保証しない。なんたって成功した人の転落話なんて、幾らでも見てきてるし皆大好きだろ?」
つまり幸運と幸せは同義じゃない、幸運の量と幸せの量も等量じゃない、イニクオリティ……不等だ
(中略)
幸運は、あくまでラッキーなことでしかなくて。でも、幸せってもっと個人的なものだよね
「そうなんだよね。こんな厄介な夜に巻き込まれて、はたから見たらわたしたち、すっごく不幸に見えるんだろうけど」
 そこで、燐はくすっと笑う。
 笑うしかないような出来事が、立て続けに起きている。
「でもね、わたしは燐とこうして一緒にいられて、今は幸せなんだ」
 
私たちには幸運に恵まれ、人生が上手く行っても、幸福を感じられない場合があります。逆に、私たちには不運に陥り、人生が上手く行かなくても、幸福を感じられる場合があります。「シーシュポスの神話」のシーシュポスは地獄で上手く行かない労役を課せられましたが、幸福を感じました。幸運と幸福(=幸せ)は別物であり、人は上手く行かなくても幸せになれる可能性があります。だからシーシュポスは悲惨な人生でも勝利できたのだと考えられます。
 
・悲しみを十全に知ることによって勝利に導かれる
私は数ヵ月前に、大江健三郎『人生の親戚』を読みました。大江はカミュの影響を受けていると言われています。そして「シーシュポスの神話」を和訳した清水徹は、大江の知人です。『人生の親戚』の主人公・まり恵は想像を絶する程の不運続きの人生を送りましたが、最期にVサインをしてこの世を去りました。『人生の親戚』は「シーシュポスの神話」に近しく、人は悲惨な人生でも勝利できるというお話だと思いますね。
 

f:id:amaikahlua:20211002150240p:plain河合隼雄(1928~2007)

 問題に正面からぶつかり、それを解決することによる勝利とは異なる勝利をまり恵は経験したのだ。最初の頃は何にでも正面から当ってゆくような姿を見せたまり恵は、問題を解決したり解消したりするのではなく、それを背負うことによって味わう「悲しみ」を十全に知ることによって、勝利に導かれたのではないだろうか。*1
 
河合隼雄さんの解釈では、『人生の親戚』のまり恵は「悲しみを十全に知る」ことによって勝利したらしい。この解釈は、「シーシュポスの神話」にも応用できそうですね。シーシュポスも冴えた意識で自分の悲しみを十全に知り、「すべてよし」という勝利宣言をすることができましたから。悲しみは人生の親戚であり、親戚とは知り合いとして上手く付き合っていくことが大事。悲しみから逃げたり悲しみを解消したりするのではなく、悲しみを「知る」ことが勝利の秘訣だというわけです。シーシュポスの神話」と『人生の親戚』を安易に混同するのは、良くないかもですが……。
 

反省会

以上の解釈はあくまでも私の戯れ言であり、有識者から見たらイケてない解釈である可能性があります。また、今回は悲しみを十全に「知る」ことによって人は幸福になれるという話をしましたが、前回は余計な情報を「知らない」ことによって幸福になる生き方について書きました(笑)。私が見た限り、今回と前回の内容はけっこう対立していると思います。この対立をどう判断すれば良いのかは、今後の課題としておきましょう。

*1:大江健三郎『人生の親戚』、新潮文庫、一九九四、二六六頁。